アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

中国怏怏(おうおう)

2023-09-07 07:33:40 | 時代にFace it

◎牢獄に入れられて博打をする

 

中国のキャッシュレスは、世界で最先端であり、屋台の買い物から乞食への寄付までスマホがないとできないという。

以前総合格闘技の徐暁冬が、中国武術のトップやカンフーの名人や太極拳のチャンピオンを軒並み撃破していったが、それが共産党の逆鱗に触れた。かれは、信用スコア最低となり、ローンも借りられず、電子決済もできず、新幹線のネット予約もできなくなり、生活に困窮していることなどでそれを知っている。

中国の戸籍データには、預金残高など信用情報に加え、思想傾向(共産党の方針に忠実かどうか)まで含まれているそうだから、突然上海や武漢などの都市封鎖が行われても、なかなか本気で封鎖破りなどはできないのだろう。

だが、白紙運動や都市封鎖解除などを経て、都市封鎖下では、急病になったり薬が切れても病院や薬局に行けなかったり、亡くなっても死体を家から出せなかったりという、誠に不都合な事件が多発していたことがちらほら伝えられるようになってきた。

都市封鎖、地区封鎖とは、都市や地区丸ごと牢獄にしてしまうことだった。

 

実際に牢獄に入ってしまうと、心的エネルギーは発散場所を求めるものであって、古来も現代も、独房なら自慰、他人と同居なら博打ギャンブルが行われがちなもの。

それを見て取った孔子は、食べるものがあってやることがないなら博打をしていた方がましと言っている。

そんなわけで、鋳造貨幣ができると真っ先に使われたのは、物との交換ではなくギャンブルのチップだった。

小アジアのリディアで世界最古の鋳造貨幣が作られた時、早速サイコロ賭博で利用されて、食事もせずにギャンブルに打ち込んでいた人が結構いたという。

日本でも、最古の鋳造貨幣である富本銭は、683年(天武天皇12年)頃登場したが、その主たる用途は、双六博打のチップだった。双六はバックギャモン。ところが天武天皇自ら博打好きで、役人にも庶民にも博打大流行となり、持統天皇の689年、698年、754年と博打禁止令が出された由。(参照:お金の秘密/安西正鷹/成甲書房P44-46)

※論語 陽貨第十七

「子曰く、飽食終日、心を用うる所なきは、難きかな。

博奕なる者有らずや。之を為すは猶お已やむに賢(まさ)れり。」

 

中国は、スマホと監視カメラで世界最高の牢獄国家を作り得たわけだが、人間がそこに心理的安定を持って暮らすには、ギャンブル以外の何かが必要になる。古代ローマでは、それは見世物だった。

食料があって、時間があって、居所があって、スマホやテレビの見世物(芸能、スポーツ、ドラマ、映画、動画、エロなど)に飽いて、(オンライン)ギャンブルもできない時、人は自分自身に向き合い始める。

不幸なことだが、それは冥想の始まりではある。

※見るべきほどの事をば見つ/平知盛/平家物語

 

2023年9月5日のBS日テレ 【深層NEWS】で、“中国抱える「時限爆弾」不動産“危機”中国経済“異変”何が?“の議論の中で東京財団政策研究所の柯隆主席研究員が、中国が企業の破産認定をしないままゾンビ企業が増えてどんどん不況が深刻化する先は、”革命が起こる“と何気なく語っていた。

都市封鎖、地域封鎖以前から既に中国人は世界最高の牢獄にあったわけだが、電子マネーしか使えない社会、物理紙幣が実質使えない社会にあっては、何かあればあっという間に生活できなくなるということだろうから、物理的封鎖は、物理的暴発にすぐつながるということがあるのではないか。その辺が共産党の終焉が意外に急速に起こる可能性を暗示しているように思う。

 

『確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。』

(ダンテス・ダイジの「戯れに冥想を」から引用)

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心の骨折(ほねおり)

2023-09-06 06:53:17 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎人知れぬ心の苦しみまで感じとる

 

以下はいずれも松尾芭蕉49歳の句。

 

人も見ぬ春や鏡のうらの梅

(鏡の裏に彫っている梅など誰も知らないが、世に隠れ住む私にも春はやってきている。)

孤独な私の思いにも斟酌などせず季節も時代も進んで行く。

 

鶯や餅に糞する縁のさき

(春の光を受けて縁側にかき餅を広げて干してあるが、そこに声の美しい鶯が無粋にも糞をして去って行った。)

美しい風景にもリアリズムの面がある。禅とクンダリーニ・ヨーガのコントラスト。

 

両の手に桃とさくらや草の餅

(庭にある桃の花と桜の花を両手に携えて、草餅を食べるという、幸福この上ない様子。)

禅家は、桃の花と桜の花も草餅も切って捨ててみせるが、クンダリーニ・ヨーギは、いずれも愛でて味わう。

 

鎌倉を生きて出でけむ初鰹

(新鮮な初鰹が魚屋の店頭にやってきたが、鎌倉を出る頃には、まだ生きていたのだろう。普通の人ならば思いも及ばぬ、初鰹が経てきた人知れぬ心の苦しみまで感じとるのがクンダリーニ・ヨーガ的。人知れぬ心の苦しみのことを「心の骨折」と称する。

 

芭蕉は禅で大悟したにもかかわらず、かえって繊細な感覚を表面に出して、日常の行住坐臥の中に、魚の運命の転変までも思いやるデリカシーを見せている。

禅は水平の悟り、クンダリーニ・ヨーガ系は垂直の悟り。二つを手に入れれば人生としては完成である。これぞトースとダンテスの合体の相ではある。

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抜隊(ばっすい)

2023-09-05 06:50:07 | 達磨の片方の草履

◎小悟を重ねながらも完璧な悟りを目指す

 

抜隊得勝(1327-1387)は、後醍醐天皇没後の室町時代始めに活躍した人物。神奈川県足柄上郡中井町に生まれ、4歳の時に父を失い、出家は29歳と遅い。

8、9歳の頃、死後極楽か地獄に行って、あるいは成仏するような霊魂とは一体何か、またこのように見たり聞いたりする自分とは何かと、深く疑ったという。

20代の頃、相模治福寺の応衡禅師に師事し、悟りかけたのが数十度だが、悟りはしなかった。

出家の際、諸仏の大法を悟って、一切衆生を救い尽くして、その後に涅槃を成し遂げたいと考えていた。

通例、大悟以前の禅の修行においては、一切衆生を救い尽くすなどという考えすら雑念として棄てるべきものだが、抜隊はダークサイドに堕ちず、きちんとしていたのだろう。

抜隊は、山の中で坐り、路辺に坐り、あるいは、眠らないようにするため樹上に坐るなど、昼夜分かたず、脇を倒さないほどの、猛烈な冥想修業をした。里人がこれを憐れんで粗末な草庵を作ってくれたほどだった。

 

さてある長雨の頃、谷川の水声を聴き、この渓声を聴くのは誰かと疑って、身体全体疑団となったところ、まだ悟っていないと感じた。更に坐り、暁に渓声が肺肝に入るのを聞いてこの疑団が晴れたものの大悟ではないことを自分でも感じていた。

そこで親友の得瓊に相談したところ、自分の経験から山野での自修は結局不可であるから、真に悟った師について参禅すべきだと抜隊を諭した。32歳の抜隊は、出雲の孤峯覚明禅師に参禅し、

「趙州は、なぜこの無字をいうのか?」と問われ、

「山河大地草木樹林ことごとく悟っている」と答えたところ、

「おまえは、情識をもって言っているのか?」と突き返され、

抜隊はその瞬間(言下)に大悟した。

抜隊は、孤峯に参じて60日で大悟したのだ。

 

以後抜隊は、全国各地を行脚する旅を行う。

晩年の康暦2年(1380年)正月に、富士山に向かって説法する霊夢を見たことにちなみ山梨県塩山に向嶽庵(嶽は富士山)を開いた。塩山仮名法語などが残る。

 

室町時代の始めの混乱期に、衣食の不便も厭わず冥想環境としては最悪の山中や道端で坐り続けた気概と志に凄味を感じさせる。

さらに何度も小悟を重ねながらも、完璧な悟りを目指して坐り直す、自分に対する厳しさには目を見張るものがある。

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下実上平

2023-09-04 07:52:09 | 浅い霊感から神人合一まで

◎中間段階におけるとある状態

 

クンダリーニ・ヨーギ本山博は、行をしたいという人に限って全然信仰を持っていない人が多いようであって、行法だけ習って神様の方に心の向いていない、信仰心のない人は、いけないと言う。(神秘体験の種々相/本山博P174)

 

神秘生理学的な人間の状態について「下実上平」はよいが、「上実下虚」はいけないとされる。本山博の説明はこんなかんじ。

『では、「下実上平」とはどういう状態かと言うと、まず、

「ムーラダーラのクンダリニーが十分に気、アストラル、カラーナの次元で活性化され、ムーラダーラ、ス ワディスターナに生命力が充実し、胸部、頭部は無いように羽毛のように軽く、明るく感じられ、呼吸が無 いように」なります。

ムーラダーラ、スワディスターナに生命力が充実するのには、結跏趺坐もいいが、やはりシッダアーサナがいいように思います。 会陰のところに踵を付けて刺激をするのがいいように思います。

それからよく尋ねられることですが(アメリカの学生とか弟子達というのは、そういう点は本当に恥ずかしげ もなく質問するのですが)、「自分は精力が強いので、それをコントロールしたいと思ってクンダリニーヨーガを始めたのに、坐るようになったらもっと強くなって困った。どうしたらいいだろうか」と尋ねられるのです。しかし、坐ったら、まず初めにそういうふうにならないとだめなのです。いつもよく皆さんに言うことですが、アジナの下垂体のところに意識を集めると、性的エネルギーを十分にコントロールできるようになる。しかし、まずムーラダーラとかスワディスターナの性的なエネルギーが十分動くようにならないと、モノにはならない。

ただ、それを低い、物理的な次元で出してしまったら性的エネルギーの浪費になってしまうが、そうしないで、それを周天法その他によって高い次元のエネルギーに変えることが大事なのです。そうしたら、十分にコントロー ルできるようになるわけです。「ムーラダーラのクンダリニーが十分に活性化される」というのはそういうこと なのです。

クンダリニーヨーガをしてクンダリニーを目覚ますのだから、初めはどうしても、クンダリニーの力が気の次元とか物理的な次元で性的なエネルギーとして動くわけです。それを今度は、周天法その他によって、スシュム ナを通して高い次元のものに上げなければなんにもならないのです、出してしまったのではね。高い次元のものに上げれば、アストラルとかカラーナの次元でクンダリニーが活性化され、そしてムーラダーラもスワディスターナも十分に、物理的な次元ではなくて、アストラルとかカラーナの次元で動くようになって充実してくるわけです。

物理的な次元だけで活性化されると、落ち着かなくなってしまう。これは自然に起きる現象だから仕方がないのです。そういうふうなことで落ち着かないようではどうにもならない。ですから、それをスシュムナの浄化法や周天法などによって、アストラルのものあるいはカラーナのものに変えていかないといけない。変えることができ、スワディスターナやムーラダーラがカラーナの次元で十分に動くようになると、今度は下腹に気力が充実して、光が出てきたり、非常に熱くなったり、そうしているうちにだんだん下腹部の方から外に自分の存在が滲み出ていくというか広がっていく。』

(神秘体験の種々相/本山博/宗教心理出版P176-178から引用)

※シッダアーサナは男性だけがやる。(密教ヨーガ/本山博P68)

※クンダリーニ・ヨーガは男性の行法

 

若い時分には、このアメリカ人の男性のような人は多いのだろうと思うが、神様のことが全く念頭になく行でこれをなんとかしようと思い立つのは不純な発想なのだろうと思う。

引用文は長いが、「出さないで」、スシュムナの浄化法や周天法によってそれをコントロールするというのが、広義のクンダリーニ・ヨーガであるクリヤ・ヨーガ、道教周天、古神道、チベット密教などに共通する原則なのだろうと思う。

「下実上平」とは、本山博の造語のようだが、究極を指し示す言葉ではない。クンダリーニ・ヨーガに取り組むには、神様への関心とか信仰心という一見簡単な条件が必要条件として説明されているが、実は人生すべてを賭ける覚悟がないとできるものではなく、またそれを成就させるためには正師に出会わなければならない。

また正師に出会っていたとしても、自分の側に覚悟と準備が無ければ、魏伯陽の弟子達のように修行をあきらめさせられることがある。

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打てども打てどもシュートは入らなかったバスケットボール日本代表

2023-09-03 07:06:37 | 時代にFace it

◎打つ手なしから望外のホーキンソンの活躍

 

昨夜のバスケットボール男子・W杯日本対カーボベルデ戦は、第三Q終了時点で18点の大差でリードし、楽勝ムードが漂っていた。

ところが好事魔多し。必死に食らいつくカーボベルデは、第四Q着々とゴールを積み重ねる一方で、日本は、最初の7分間3ポイントを中心にシュートを打ち続けるが、ことごとく外れまくるという悪夢の展開。残り1分で、得点はついに74-71となり絶対絶命となった。

3ポイントだって平均40%は入るものだが、7分間外れてばかりいるものか。サッカー日本代表のドーハの悲劇の時も、このままの得点で進めばW杯に初出場できるところを、チーム全体が糸の切れた凧のようにふわふわし続けて、最後終了間際に失点して結局W杯に進めなかった。

その時とよく似た雰囲気がやってきたのだ。

そうした流れを変える人物は、6か月前に帰化したばかりの元外人ジョシュ・ホーキンソンだった。この後一人で2点、3点と追加し、勝利をたぐり寄せた。ホーキンソンなかりせば、勝利はなかった。

 

神話や古代の伝承では、あのように圧倒的に敵が優勢な流れを変えるのは、トリックスターなのだが、トリックスター自身が流れを変える場合とトリックスターの指図を受けた何も知らない人物が変える場合とがある。ホーキンソンがどちらだったのはわからないが、日本人にはとてつもない勇気あるプレーの数々に見えたのではないか。

試合後マスコミは、トム・ホーバスHCの選手に自信を植え付けたことや、やってきた練習方針を信じることが結実したと評価する記事が多いが、その戦略の中心の3Pシュートがあれだけ外れまくれば、ホーバスHCも打つ手はなかったのではないか。

 

日本の立替は外国(外人)の手によると予言されて、明治維新という立替も英国の支援を受けて成功させ、第二次世界大戦でも米国により日本は立替えられた。日本が崖っぷちに立たされられた時、そのゲームチェンジャーは、なぜか毎度外国・(元)外人なのである。今般は、ホーキンソン。ただしその基礎を作ったホーバスHCも評価される。

日本は勝ったから、その危機の第4Qのことは忘れ去られていくが、国内政治も経済も、ドーハの悲劇直前のようにふわふわしていて、隣国中国の暴発でひどい目に会いそうな雰囲気は感じているのではないか。

このように、ぎりぎりのところで、予想外の外人(外国)助っ人がこれまでいたが、マッカーサーの時にように日本が負けたシーンもあった。今後もそう。

対カーボベルデ戦は、バスケットボールどころではない部分まで感じさせられるところがあった。

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目次7

2023-09-02 18:38:03 | 目次(カテゴリー別)

【カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo】
アヴィラの聖女テレサのエクスタシー(天使に槍を突きさされる)
 タントラの現実(谷体験)
 深い愛の中(ゆらぎ )
 女几の房中術(おとこもすなる房中術をおんなもしてみむとすなり)
 ダライラマのカーマ・ヨーガ-1(自然に無分別智を経験する)
 ダライラマのカーマ・ヨーガ-2(エクスタシーの秘密)
 ダライラマのカーマ・ヨーガ-3(マーヤ(幻影)を空性の悟りの智慧に変容させる)
 性的ヨーガのアーキテクチャ(タントラとは自由である)
 エクスタシーで意識的でいる(男性の側の修行法)
 OSHOとダンテス・ダイジの性愛冥想の違い(バグワン流 )
 巣ごもり消費とセックス(男と女を一つの神にする)
 イングリッシュ・ペイシェント(愛に生きる)


【ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo】
一点と世界全体、一瞬と永遠(華厳経とドン・ファン )
 霊がかりをやめよう(気まぐれな隣人)
 孤独と無力から自由へ(あらゆる幽霊を凝視せよ)
 時間の様式(ヤキ・インディアンの天意・神意 )
 ドラッグに侵された欧米-1(準備ができていない者のドラッグ使用は危険)
 ドラッグに侵された欧米-2(滅亡か存続か)
 それでも酒を(酒飲みの心性)
 シロシベ-2(ウッタンカ仙人)
 シロシベ-1(呪術師マリア・サビナ )
 ドン・ファンの熟眠中に夢を見ない(死の瞬間に意識を清明に)
 フェンタニル(アメリカの薬物ジャンキーなライフ・スタイル)
 アヤワスカ-1(現実からのジャンプアウト)
 アヤワスカ-2(すべての人を許す愛)
 私はソーマを飲んだのか?(天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ)
 意識の光る上着(利己的な世界観)
  グラウコス=向精神性薬物による転移(海神になったが悟ったわけではない)
  上薬、中薬、下薬(不老不死と仙人)


【占星術  (冥想法6)neo】
ノストラダムスの7千年期(「今だ、今だ」と叫ぶ鳥)
 失われた占星術の技法-1(アナレタ(殺人星) Anaretaなど)
 失われた占星術の技法-2(黄道12星座の区分法)
 失われた占星術の技法-3(360度のシンボル)
 失われた占星術の技法-4(あるべき占星術の姿)
 運命は変えられる(四柱推命の奥義書、滴天髄)
 あなたの星(ゾディアックの秘密)
 ノストラダムス予言-ヘルメスの後裔(待望久しい人は東洋に)


【マントラ禅(冥想法7)neo】
念仏の一遍の悟り(となふれば仏もわれもなかりけり)
 観せる観想、観る観想(仏のみぞ知る)
 13段観想から念仏へ-1(観無量寿経 )
 13段観想から念仏へ-2(舞台セットの構築)
 13段観想から念仏へ-3(二段構えの構想)
 13段観想から念仏へ-4(念仏はスタートライン)
 13段観想から念仏へ-5(メイドインチャイナと道教 )
 マントラ、呪文、聖句(言霊の効用)
 神仏を拝まない(どちらでもOK)
 念仏の必要回数(念仏の効果の多様性)
 大田垣蓮月(棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな)
 称名、マントラで懺悔(乱倫、娼婦)
 井上日召(見性後に暗殺集団を組織する)
 虚空蔵求聞持法の道場(感受性の深化)


【只管打坐neo】
六祖慧能の思量しない禅(想念停止)
 本気と精神パワー(教えてくれなくてありがとう)
 公案と只管打坐(道元の判定)
 ケン・ウィルバーの身心脱落(常に故郷にいる幸福)
 原田雪渓の身心脱落の説明(自分とものとがひとつになっている状態を自分で知る)
 宮崎奕保禅師の悟り(ものは一つだと体が覚える)
 曹洞宗と只管打坐(賭ける仏教=南直哉)
 所有することは失うことである(勝者は常に恐怖の中にある)
 道元禅師の坐禅箴(鳥飛んで鳥の如し)
 わびの美の七つの特徴(実用性の対極)
 只管打坐の坐り方(普勧坐禅儀)
 正しい瞑想と沈黙(百年河清を待つ)
 如浄、道元の只管打坐コンプレックス(日常の動作・挙措に及ぶ)
 この世との折り合い(悟りのビフォー・アフター)
 クリシュナムルティが潔癖性だったこと(聖者の弁別)
 クリシュナムルティも人の子(虚栄心)
 身心脱落の前兆(三種の吉兆)
 始まりもなく終りもなく人間でもない(人なる周辺世界と冥想)
 本気と情緒パワー-1(香厳の父母未生以前の境地)
 慧可断臂異説(ゲゲゲの女房など)
 違いを理解できないもの(身心脱落と臨済禅)
 只管打坐の7ステップ-4(絶対に買えない最高の逸品)
  道元が子猫を斬らず(禅マスター南泉の子猫斬り)


【クンダリーニ・ヨーガneo】
OSHOの高弟の死(肉体へ帰還せず)
 重金属の体内蓄積(効果的排出法の模索)
 OSHOが青いオームの字を見る(オームの文字は死ぬときにしか見えない)
 最後の審判はなぜあるのか(かつて死んだ者も生きている者も)
 本山博の神様とのコンタクト(その体験を見ている自分)
 臨死からの生還とその後の死(全身虚血と再灌流症候群)
 窮極の呼吸法・胎息(まず食事のコントロールから)
 クリヤー・ヨーガ修行メニューと日課(午前3時から午前12時45分までのカリキュラム )
 本山博の行のストラクチャー(心と身体 )
 預流果から阿羅漢果(ノーリターン・ポイント)
 処女たちの秘密(目覚めると問題になるが目覚めないと問題ではない)
 クリヤ・ヨーガの道程(肉体と心を支配し、死をも征服)
 スーフィの窮極(バハーウッディーン・ナクシュバンドの魂の旅 )
 ラージァ・ヨーガとヨーニ・ムドラー-1(謎また謎のクンダリーニ・ヨーガの秘奥)
 ラージァ・ヨーガとヨーニ・ムドラー-2(サハスラーラ蓮華の内にある神秘の月)
 原初の光を見る(悟りを開いた人が悟りを開いた意識のままで )
 クンダリーニ・ヨーガの聖と俗(粗雑なバイブレーションと現実操作)
 言霊の妙用(精妙なる感覚)
 OSHOの中有(中有と夢)
 出口王仁三郎の生き返り(クンダリーニ・ヨーギは六度死ぬ)
 ゾーハルでの万物のスタート地点(一条の黒ずんだ焔)
 ソクラテスの死生観-1(パイドン)
 ソクラテスの死生観-2(12片の皮を縫い合わせたボール)
 最初の4つの身体と統合失調症(私たちも軽度の統合失調症)
 本山博のクンダリーニ覚醒ステップ(不動明王段階 )
 クンダリーニ上昇から悟りまで(不動明王のポジション)
 死の領域を超える(日常感覚の延長にはない)



【丹田禅(冥想法8)neo】
ころんだ?居士を娘が助ける(素直さと勢い)
 禅の主人公(自分自身を演技する)
 一休鴉の声を聞き反省あり(森女との爛れた愛の生活を鴉が笑う)
 葉隠を見抜く(浮き世から何里あらうか山桜)
 公案のメカニズム(公案の一例)
 慧春尼(周囲に理解者なし)
 船頭になった巌頭和尚(杜鵑 月に叫んで夜三更)
 馬祖が瓦を磨いて仏になる(坐禅を学ぶ、坐仏を学ぶ)
 禅僧山本玄峰(戦中戦後の首相の相談相手)
 丹田を錬る-1(生命力の強化)
 丹田を錬る-2(古神道の禊の神事-1)
 丹田を錬る-3(古神道の禊の神事-2)
 丹田を錬る-4(古神道の禊の神事-3)
 丹田を錬る-5(古神道の禊の神事-4)
 丹田を錬る-6(古神道の禊の神事-5)
 ろうそくの光を消す(漆黒の闇と光)
 寺を持たない枯禅の花亭と夾山和尚(身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠し )
 香厳が竹に瓦礫が当たった音で悟る(自分でなんとかするしかない)
 長沙和尚七日で悟る(どういうルートをたどれば大悟に至るか)
 万法と侶(とも)たらざる者(独存)
 無聞思聡の冥想の深まり(小悟何回、大悟何回)
 至道無難の衣食住観(為すべきをせずに衣食住が楽なのは天罰がある)
 誠拙和尚が大金のお布施をもらう(寄進の作法)
 人間性という渇望(なにもかもなしであるはずの禅)
 一路居士(万事休すべし、如何なるか是れ一休)
 普化なる自由(社会性とのバランス)
 臨済が師匠黄檗を押し倒す(師匠も生き埋め)
 眼(まなこ)もし睡らずんば(宗派によらない体験とは言えない体験)
 南泉の猫を斬った後(やり過ぎた咎め)
 禅の悟りは展開しにくかったが(人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行する)
 平常心是道(人間の側の体験に非ず)
 宗峰妙超の大悟(他時異日、別生涯)
 芭蕉の野ざらし紀行(捨て子)
 白隠と本山(紫衣と黒坊主)
 村田珠光の印可のあかし(圜悟禅師の墨跡)
 冷え、凍み、寂び、侘び(恋、秘すれば花)
 パーフォーマー利休(花入れに水だけ入れて飾る)
 空と不空(あらゆる生死と涅槃)
 選り好みをしない-1(趙州のジレンマ)
 選り好みをしない-2(覚者の行動ルール)
 選り好みをしない-3(放射性物質と日本人の行方)
 かわず飛び込む水の音(古池真伝)
 雪中庵蓼太の蛙とびこむ水の音(自ら飛び込む)
 山水画とスピリチュアル(迷いと悟りを一枚の絵に)
 夏目漱石の禅(見性失敗)
 三祖信心銘(至道無難)
 智者は無為なり愚人は自縛す(信心銘から)
 熟睡中に眠らなければ夢も見ない(信心銘でアートマンの後先)
 OSHOバグワン信心銘を説く(そのような思いは、ついには一瞬にして止む)
 二は一に由って有り(禅の三祖僧さんの信心銘から)
 徳山の棒(棒のたたき加減)
 七日間で悟りを得る-1(リフレッシュ&トライ)
 七日間で悟りを得る-2(定力で推し詰める)
 七日間で悟りを得る-3(現成公案)
 分別対立のない真如の世界への共感(イエスが弟子の足を洗う)
 沢庵禅師の太阿記-1(活人剣)
 沢庵禅師の太阿記-2(刀を用いずして人を殺し、刀を用いて人を活かす)
 沢庵禅師の太阿記-3(天下に比類なき名剣)
 普明の十牛図(絶対無に軸足)
 臨済の悟りの四つのあり方(四料揀の白髪頭の子)
 達磨の利根、鈍根(師の教えにしたがって悟るのは鈍根)
 禅と大脱身(乾いた道あるいは近道)
 至道無難-1(至道無難の愛と大安心)
 至道無難-2(至道無難の無私)
 至道無難-3(一生ずっと坐禅、一度だけ坐禅)
 至道無難-4(至道無難の悟境)
 至道無難-5(冥想教育の可能性)
 正受慧端-1(正受慧端の団扇バトル)
 正受慧端-2(見性した人の少なさ)
 正受慧端-3(見性した後の正念ケアが大切)
 正受慧端-4(正受慧端の修行時代)
 正受慧端-5(その生い立ち)
 水牛の尻尾(無門関の第三十八則 牛過窓櫺)
 西郷隆盛沖永良部で万事休す(その冥想修業を語らず )
 西郷隆盛と禅(未発の中)
 勝海舟の禅(虚心坦懐、事変に処す)
 丹田を錬る-7(古神道の禊の神事-6)
 仏法東漸してニューヨークに到る(愛語の力(嶋野栄道/到知出版社))
 危機感の薄い日本人に求められるもの(どこかでどん底まで落ちるしかないのかも )
 一休という名の由来(祇王寺)
 芭蕉の師仏頂和尚のこと(仏頂の純粋な道心をしのぶ)
 肥田春充の丹田強化-1(虚弱者から強壮者へと変貌)
 肥田春充の丹田強化-2(丹田を錬る-10)
 肥田春充の丹田強化-3(丹田を錬る-11)
 肥田春充の丹田強化-4(足の踏みつけと踏みこみ)
 肥田春充の丹田強化-5(踵の踏みつけ)
 肥田春充の丹田強化-6(爪先の踏み込み)
 ろうそくの光を消す(漆黒の闇と光)
 地獄へ落ちろクソ婆あ(世界が異なる)
  破竈堕(はそうだ)和尚(竈の神が成仏する)
  中国ドラマ「花散る宮廷の女たち」(禅の六祖壇経)
  白隠の和風公案(男も女も、恋愛に、ライフ・プランに惑う)
  少年宗峰妙超、ペットの子犬を難詰する(播磨の悪童 )
  一休、霊照女の画像に賛す(阿ホウ居士の娘 )
  悟りと文化的生活は別(趙州十二時の歌 )


【道教neo】
呂洞賓の10のテスト-1(無私と打算 )
 呂洞賓の10のテスト-2(他人のために命を差し出すことに躊躇なし)
 女丹女の悟り-1(女丹合編通俗序)
 女丹女の悟り-2(太陰煉形で月経を止める)
 女丹女の悟り-3(オルガズムを生涯一度も体験したことがない女性が多い)
 道教排斥以後の山岳修行(役行者以後)
 魏伯陽の死-1(この世への未練をすべて捨てる)
 魏伯陽の死-2(我が身を死んでみせる)
 藍采和(古人は混混、今人は紛紛)
 悟っていないマスターは危ない(中心疑う者は、その辞(じ)枝(わか)る)
 坐忘、ある冥想法-1(欲の深い者は天機が浅い )
 坐忘、ある冥想法-2(肉体を落とす)
 99パーセントは、ロボット、もしくはブタ(本物のブタ)
 気の充実と狙い(年齢に応じた冥想の準備)
 人体に関する多次元モデル(七つの身体モデルへ)
 孫不二の屍解(あるスーパー女性道士)
 朱橘(屍解)
 先祖供養の実相(救霊の至難事)
 孔元方(道を伝授する相手を何十年も待つ)
 至人は己れなく、神人は功なく、聖人は名なし(荘子とOSHOバグワン)
 黄帝が広成子のアドバイスを受ける(至道の精、窈窈冥冥たり)
 社会的成功ほど失敗する(人生の安物買い)
 機心(便利は危険)
 荘子の覚醒までのステップ(独存、不死不生)
 黄初平(石を羊に変容させる)
  張良と仙人(仙人出現を招く )
  中国の運命、日本の運命-1(『「笹目秀和」と二人の神仙』)
  中国の運命、日本の運命-2(人は神々を得て働き、神々は人を得て動く)


【密教neo】
フィリポによる福音書の復活(永遠のアイオーンへと昇る )
 定と三昧の違いと冥想十字マップ(昼と夜のサイクル根本テキスト )
 観想法専用ルームサムデ・プク(タシルンボ寺郊外の洞窟修行)
 比叡山で仏を見る-1(高川慈照師の好相行)
 比叡山で仏を見る-2(好相行とは  )
 空海以前の虚空蔵菩薩求聞持法(法相宗の神叡)
 覚鑁(かくばん)の虚空蔵菩薩求聞持法(メソッドとその結果の不定性)
 空海の死(肉体を残す)
 チベット密教の近道(ナーローパの修行)
 あがきすぎる、何も手を打たない、完全にあるがままにある(自分自身を成長させる意志)
 最澄の籠山(十二年籠山行の起こり)
 フィリポによる福音書の復活(永遠のアイオーンへと昇る)
 女性チベット密教修行者ナンサ・ウーブムの復活(グルなしでポア)
 立川武蔵のシャクティ・パット(不用意にチャクラを開かぬようよくよく用心すること)
 ダライ・ラマとアメリカ(弱腰な対応に終始 )
 ヨーグルトと明星(虚空蔵菩薩求聞持法の周辺)
 虚空蔵菩薩求聞持法もいろいろ(洗脳に無防備な状態)
 六条御息所と世界の見方(霊のある世界、神仏のある世界)
  チベットの託宣僧制度(観想法からトランス)


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天消地滅-神人合一-2

2023-09-02 03:18:54 | 人と神の「実際のところ」

◎真心をささげて神さまに溶けいる

 

出口王仁三郎の、人が神さまを恋い慕い、神さまも人を愛することの別の説明。

 

『信仰は恋慕の心であるということは、かねて『霊界物語』その他で示されているが、その恋慕の程度のいかに切実なるものであるかを、多くの人はしらない。これを一つの理想くらいに考えているのだから、だめである。そんなものではない。

渾身の真心をささげて神さまに溶けいるとき、それは相愛の男女の抱擁に幾十倍するかわからぬほどの、心からなる幸福を享受するのである。天消地滅どころのものではない。じっさい筆や言葉ではいいあらわすことができない底のものである。思うてもみよ、相手は至純至美なる神さまである。

純潔なる処女を形容して天女のようだとよく人がいうが、どうしてどうして、比較にもなんにもなったものではない。現世の美と天界の美とは標準がちがう。ひとたび天人、天女の相貌に接したものは、現界におけるどんな美人を見ても美男を見ても、美しいとは感じられない。それはあたかも太陽の前の電灯のようなものである。また美女の形容に、竜宮の乙姫さまに金覆輪をかけたような美人などというが、天人界にくらぶれば、竜宮界の美女たちは、その気品においてとおくおよばないものがある。天人界はじつにじつに美しいものである。

ふたたびいうが、信仰の極致、神さまに溶けいるときの心境は、言語に絶した至美、至善、至貴なるものである。その心境を味わわねば徹底したる信仰とはまだいいえないのである。』

(出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち 愛>愛をつくす 神への恋愛から引用)

 

出口王仁三郎は、愛によって神様に溶けいった。木花咲耶姫命など美人の高級神霊との出会いを繰り返したから愛が結実したというわけではあるまい。大神は高級神霊とは別格である。

 

また、天消地滅とは、“天もなく地もなく”であって、この言葉は、霊界物語第73巻天祥地瑞_紫微天界_第1章 天之峯火夫の神の段に登場する。天消地滅が天祥地瑞全9巻の冒頭に登場することが注目ポイント。

何もないところから一点が発生し、それが世界に展開していくのは、ユダヤ教の見方に似ている。以下の霊界物語の文は、一点が世界に展開していくところに注目しがちだが、最初は“天もなく地もなく”で、忽然と一点が発生するところが眼目。第七身体と第六身体の関係である。

『天もなく地もなく宇宙もなく、大虚空中に一点のヽ忽然と顕れ給ふ。このヽたるや、すみきり澄みきらひつつ、次第々々に拡大して、一種の円形をなし、円形よりは湯気よりも煙よりも霧よりも微細なる神明の気放射して、円形の圏を描きヽを包み、初めて⦿の言霊生れ出でたり。』

(霊界物語第73巻天祥地瑞_紫微天界_第1章 天之峯火夫の神の段から引用)

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2.悟りとは何か-7

2023-09-01 06:49:40 | 夢と真実neo

◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

(2009-01-15)

 

クンダリーニ・ヨーガでの究極の体験がそのものズバリで文献に残っていることはまずない。大体が西洋の錬金術書のように、その体験のないものが読んでも全く何のことか想像できないような文献ばかり残されている。

 

2.出口王仁三郎のケース

 

出口王仁三郎は人生の中で5~6回肉体死を経験したと語っているので、そのうちの一回は中心太陽への突入体験であったのではないかと考えられる。また自分が神であったことも、唐突に、前後の脈絡なく述懐している。

 

その時の体験は、バラバラな形で残している。

 

(1)上昇の過程

  霊界物語第五巻に、「神」マークのついた人間が、先に鉤のついた黄金の霊線に沿って引き上げられる様子が書いてある。出口王仁三郎が、黄金の霊線と見えるクンダリーニのエネルギーコードに沿って、多くの人間が無数の宇宙を上昇していくことを自分も上昇しながら、その霊眼で確認したものと考えられる。

 

(2)中心太陽への突入体験

 

  出口王仁三郎は、中心太陽への突入体験を無我の境と表現する。大なる神の我という状態があることが日常の生活感覚での吾と全く違うことをことさらに主張することは、その体験とはいえない体験がある者だけのモチベーションから来るものだと思う。

 

『無と云ふ事は言霊学上、天といふ事である。我と云ふ事は霊的に見た自分、宇宙と合致したる自分。自己の肉体をさして吾と云ふ、吾のわれは五つの口と書く。鼻の穴、口の穴、耳の穴、尻の穴、小便の穴、この五つの穴を備へた肉体の自分をさして吾と云ふ。

 

無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態である。慾望もなく、怨恨もなく、好きもなく嫌ひもなく、自分もなく人も無く、神の懐にとけいつて、神は我なり我は神なり、神人一如の境地に立つた場合を無我の境と云ふのである。

 

吾人の吾もわれなれば我国の我もわれと云ふ。併し乍ら、【我】と云ふ場合は大なる神の我、【吾】と云ふ場合は一個の肉体の吾となるのである。われわれとか、わが身とか、わが家、わが妹、わが妻など書く場合は必ず吾の字を用ふるのが至当である。』

(水鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)

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無我は人間にはない

2023-09-01 06:47:49 | 究極というものの可能性neo

◎出口王仁三郎の無我

(2006-10-04)

 

『真の無我の境というのは、人間としてあるものではない。

無我のような感じを起こすことはある。それはある事業に没頭して、それに一生懸命になっておれば、他の仕事に対しては、無我の境に入ることになる。しかし夢中になっておるその仕事に対しては、決して無我ではない。

精神統一というが、これもまたいうべくして出来得べきことではない。祝詞を奏上しながらもいろいろなことを思い浮かべるものであるが、鎮魂というのは、「離遊の運魂を招いて身体の中府に鎮める」ことであるから、いろいろの雑念が集まり来るが当然である」

その雑念は、罪障に対する回想や希望となって現れてくるもので、それを思うのは、別に悪いことではない。』(玉鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)

 

この文の中で、無我の境についての説明は、「真の無我の境というのは、人間としてあるものではない。」だけである。これによって、出口王仁三郎は、人間を超えた無我の世界を知っていることがわかる。人間を超えるのは、七つの身体論で言えば、第六身体以上のこと。それは人間としての見方の中で語ることはできないから、以降の説明をすっぱりとやめて、別の話題に移っている。

真に問題となるのは、人間を超えることの方だが、そのノウハウについては、出口王仁三郎については、断片的に拾うことができるだけという印象がある。

 

別のところで、『佛(ほとけ)という字は「人に弗(あら)ず」と書いてあって、凡人にすぐれた覚者の意である。また佛(ほとけ)の意味は解ける、すなわち解脱したことをいうのである。

今日の佛は、全く人偏(にんべん)に弗(ドル)となってしまった。』とあり、全く同じことを表現している。

 

無我は、人間的体験の中にはないのだ。

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天消地滅-神人合一-1

2023-09-01 06:40:16 | 人と神の「実際のところ」

◎神への恋愛

 

出口王仁三郎の窮極の表現は、「無我の境」だが、それについて語っているところは少ない。最近更にそれを語っているところはないかと、霊界物語全巻の余白歌を抜粋したりしてみたが、はかばかしくなかった。

そこでふと目に留まったのが、天消地滅というワード。

以下の出口王仁三郎の文を読むと、彼は信者が神さまを恋い慕い、神さまが信者を愛したまうのが、天消地滅であるとする。これも神人合一の一つの相である。

 

『恋というのは子が親を慕うごとき、または夫婦がたがいに慕いあうごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するがごとき、人類がたがいに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまのほうからは、これを愛したまうのである。ゆえに信仰は恋愛の心というのである。

 

恋愛となるとまったく違う。善悪、正邪、美醜などを超越しての絶対境である。おたがいがまったくの無条件で恋しあい、愛しあうので、義理も人情も、利害得失も、なにもかも忘れはてた境地である。だから恋愛は神聖であるといいうるのである。

 

いまの若い人たちが、顔が美しいとか、技倆が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒潰するものである。そんなものは神聖でもなんでもない、人に見せて誇らんがために、若い美貌の妻をめとりて熱愛する夫にいたっては、まったく外分にのみ生きるものであって下劣なものである。

 

真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない。まったく天消地滅の境地である。

 

人として真の恋愛を味わいうるものが、はたして幾人あるであろうか。どんな熱烈な恋といえどもたいがいは、相対的なものである。神聖よばわりは片腹いたい。現代の不良青年などが、恋愛神聖をさけんでかれこれと異性をもとめて蠢動するのは、恋愛でもなんでもない、ただ情欲の奴隷である。』

(出口王仁三郎著作集第3巻愛と美といのち/恋愛と家庭/恋愛は神聖から引用)

 

出口王仁三郎は、情の人。神へのアプローチは、知から入る人、情から入る人、意(観想)から入る人とあるが、彼は、情、恋愛から入り、天消地滅という無我の境という窮極に至った。出口王仁三郎は愛の人、慈悲の人なのである。

 

なお、霊界物語第64巻上 山河草木第16章天消地滅の段には、

『晴れもせず曇りも果てぬ橄欖山の

月の御空に無我の声する

行先は無我の声する所まで

無我の声あてに旅立つ法の道

父母の愛にも勝る無我の声』

とあり、天消地滅とは、無我のことであることを示す。

 

無我と一句だけ示しても、人は何のことか想像もつかないのが普通なのだ。

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