アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-2

2023-09-19 06:54:02 | ダンテス・ダイジの風光

◎絶対者の体得・絶対の全面的覚醒が純粋冥想

 

 『ヨーガとは、純粋冥想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。

また、一切の仮設を排除した知的全面的探索は、ジュナーナ・ヨーガと呼ばれていたものだが、むしろ、真実の公案禅において完璧な結晶化が見られる。

そして、人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、 全面的に理解されれば、そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を、純粋冥想とすると、それが、どのような違ったアプローチに見えようとも、結局は、禅か、クンダリニー・ヨーガに包含されている。

最終的には、絶対者の究極的覚醒は、同一だとしても、それぞれのアプローチには、それぞれのニュアンスの違いが、最後までつきまとうことは、否定できない。

 

今、禅とクンダリニー・ヨーガに限って、絶対者のどの側面が強調されるかを見てみよう。

公案禅は、絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面。

クンダリニー・ヨーガは、肉体すなわちボディ・マインドの死後と絶対者の多次元存在として現出している全実在の構造的側面。

そして只管打坐は、絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面が、それぞれ強調されている。

以上は、真正の公案禅・クンダリニー・ヨーガが、只管打坐に関しての、その重点的な側面もしくは位相、すなわちニュアンスの違いである。

 

そして、真正の禅もしくはヨーガなどの純粋冥想は、真正の覚者との出会い抜きには、あり得ない。それが、純粋冥想が決してメソッドやセラピーとして成立しえないゆえんである。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅳ~ⅴから引用)

 

最初にクンダリニー・ヨーガの説明が置かれている。いきなりインド伝来のクンダリニー・ヨーガがクンダリーニ・ヨーガ系冥想の代表として置かれている。これで想定されているのは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において彼自身が披歴している、脱身からニルヴァーナの道筋であって、

『身体上の死の超越すなわち不死性の獲得』に至らなければ十分とは言えないということ。そのレベルに至って、脱身以降は、道教の柳華陽や、古神道の出口王仁三郎の示す『無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態』のように宗派を超えて共通の、肉体からニルヴァーナへのハイウェイが広がっていると見るべきなのだろうと思う。

 

禅といえば、公案禅と只管打坐という2テクニックが代表的冥想法。公案によってとある哲学的世界を構築し、絶対的に解のないことに素直に向き合えば、絶対無の自己同一化という恩寵は起こり得る。ダンテス・ダイジは、隻手の公案を透過した。彼は隻手の音声の中に『絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面』を見たのだ。

だが公案禅は、密参禅など悟りとは無縁の安易な道に逸れやすいという側面もある。

只管打坐のやり方は普勧坐禅儀などに出ている坐り方で、背骨を垂直にしさえすれば、身心脱落が起こるが、実際はいうほどに簡単ではない。『人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、全面的に理解』することが、只管打坐の冥想姿勢・ポスチャーにあるのだろう。また『絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面』は、彼の示す只管打坐の7ステップから当たりをつけることができる。

そして最後に、真正の覚者との出会いがなければ、その冥想は、なんちゃって冥想、ファッション瞑想、坐法・メソッド、セラピー止まりとなる。一時的にはよい状態があるかもしれないが、結局何も解決しないという手法群である。

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-1

2023-09-18 06:17:18 | ダンテス・ダイジの風光

◎純粋冥想とは何か

 

純粋冥想とは、冥想とどう違うのか、どのような冥想なのか。これについて集中的に書かれているのが、ダンテス・ダイジのアメジスト・タブレット・プロローグの序言である。

 

純粋冥想としての冥想法は、禅とクンダリーニ・ヨーガ。

どのように精神を成熟させていくのか、

どのように正しい師と出会うのか、

真正の覚者とは何か、

生とは何か、

死とは何か、

自分とは何か

などの主要な問題に対する方向性がすべて関連した形で呈示されているのは、空前絶後と言ってよいと思う。

 

『序言

 

あらゆる冥想も、

あらゆるセラピー、ムーヴメントも、

あらゆる宗教・思想・イデオロギーも、

おおよそ、

あらゆる人間性の営為が、

人間の根源苦、

一切万象の根本無明に対して

いかなる効能もないことを見抜く時、

私達は初めて、

人間苦そのもの・根本無明そのもの、

私達にとっての、

全現実そのものを、

ただ、

見守り、聞き守り、生きていく。

これが、

純粋冥想の発心修行である。

純粋冥想には、初めがあって終りがない。

そして、

純粋冥想には、初めも終りもない、

全体者の多様多元の戯れなるがゆえに。

 

あらゆる人間行為が、

情熱の最極点で行なわれ、

そこに、洞察と直観がともなう場合には、

行為は、必然的に無行為の入口へ

すなわち絶対無の行為の入口へ

純粋冥想へと変容する。

それは、また、

情熱・憧憬の最高形態、

渇望の最高開放である、

全面否定を通過するということでもある。

全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出かたの一つだ。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅱ~ⅳから引用)

 

日々のささやかなあるいは大それた願望とその実現に向かっての努力が水泡に帰す時、人間としてのどんな努力も何の意味もないのではないかと感じさせられることがある。

 

その時、人間苦そのもの、この世にあるものが永続するものだという誤った認識そのもの、それは私達にとっての全現実そのものだが、

それを、ただ「見守り、聞き守り、生きていく。」ことが、純粋冥想の発心修行だとする。

 

OSHOバグワン流に言えば、隙間を認知し、「見守り、聞き守り、生きていく。」ことだろうと思う。それは、悲しく、苦しく、情けなく、みじめで、割り切れないものだ。

 

これは、ネガティブな事象を中心に挙げているが、ドラッグのような中性的事象や、セックスのようなポジティブな事象でも純粋冥想の発心たり得る。だから上述の三種の事象を包含する「情熱の最極点で行なわれる人間行為」において、洞察と直観が伴うケースで、冥想の可能性を示す。さらにその状態での行為は、無行為すなわち絶対無の行為の入口へ、純粋冥想へと変容する、と結論が早々に置かれている。

 

人生の可能性のぎりぎりを徹見することで、十分に満足しちゃう人も多いのかもしれないが、それは冥想修業のスタートラインに立っただけなのである。

道教の魏伯陽は死に至る毒薬を飲めと指示することで、その人がスタートラインに立ったかどうかを弁別したという故事まである。

 

なんちゃって冥想、ファッション瞑想を始めただけでは、純粋冥想の始まりではないのだ。

 

また何かの拍子に隙間を見ることはあるだろうが、見るに際して十分な生きる情熱、情熱の最極点という“タイミング”は冥想の成就のために必要な要素なのだろうと思う。

 

そして、すべてを望めば、すべてが手に入らないという現実に直面する。これが、「全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出方の一つ」であって、世界の逆転となる。

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小中学生相手の男色団体

2023-09-17 07:20:59 | 時代にFace it

◎ソロモンの智恵で見るアイドル評価

 

偶像崇拝、アイドル崇拝は、いずれも風紀紊乱から社会秩序の崩壊そして組織宗教破壊の萌芽として古来聖者からは警戒されたものである。

ソロモンの智恵は、ベン・シラの智恵に比べると抹香臭いところがあり、生硬で丁寧で読みにくいところがあるが、とある小中学生相手の男色団体の問題の行く末として読んでみる価値はある。

ここでは、木で作った偶像がいつのまにか聖なるものとして崇拝を強制され、世を乱すものに変化していくことを述べる。

アイドルとは、『人々の魂へのつまづきとなり、愚か者の足のためのわな』なのだ。

 

『六

おごった巨人が滅びた世の始め、この世界の希望はいかだに乗って逃れ

あなたの手で舵をとられて、世に生命の種を残した。

それによって義が行なわれた。木は祝せらるべく

手でつくられたもの、そのものと、それを作った者は呪われる。

なぜならそれを彼は造ったからで、朽つべき物は神と呼ばれたからである。

同じく神に憎まれるのは、不虔な者とその不敬虔である。

10

作られた物は造った者とともに罰せられる。

11

それゆえ諸国民の偶像に処罰が下るだろう。神の被造の中で忌むべき者となり

人々の魂へのつまづきとなり、愚か者の足のためのわなとなったからである。

12

偶像への想いは淫行の始めであり、彼らを作り出すことは生命を腐らす。

13

それは初めからあったものでなく、いつまでも続くものでもない。

14

人々の空しい誇りのために、それは世に入ったもので、だから、彼らには速かな終わりで必定である。

15

早死した子のために心を痛めた父が、急にその子を奪われて像をつくり、もう死んだ者を今や神として崇める。こうしてその家の子郎党のために、神秘な儀式を伝えるにいたるのである。

16

それから時が経過すると、この不虔な習慣は強制され、法として遵守されるようになる。

かくて支配者の命によって、刻まれた物は礼拝されるにいたる。

17

遠くに住んでいるために、眼のあたり拝むことの出来ない人々は

その支配者を遠くから視像化し、尊敬する王のあらわな像を造り、その所にいない者をいるかのごとく

熱心にへつらい拝むようにする。

18

工芸家の名誉心は王を知らぬ者をも、かりたて強度の神的崇拝にいたらせる。

19

彼は権力者に気に入ろうと思って、技術の力でその像を実物よりも

美しいものに無理にしあげるからである。

20

衆愚は手仕事の美しさに心を奪われ

少し前まで人として尊んだに過ぎぬ者を、今や礼拝の的と考えるようになる。

21

これは人の生涯にとってわなとなった。 というのは人々は災厄や暴政により

奴隷にされ、人間の共有し得ないみ名を、石や木に附与したからである。

22

それから神の知識につき迷うだけで足りず

無知による大きな戦いの中に生きつつそれらの災いの状態を平和と呼ぶ。

23

幼児殺害の儀式や隠れた秘儀、奇妙なやり方で乱痴気騒ぎの限りを尽し

24

生活も結婚も不潔なものにしてしまって、人は他人のすきをうかがって殺害し

姦通によって人を苦しめる。

25

流血、殺害、盗み、欺き、腐敗、不信、騒ぎと偽証が一緒くた

26

善人を不安にし、恩を忘れ、魂をけがし、性の区別を乱し、結婚は破壊され、姦淫と淫行、

27

というのは名もない偶像の崇拝こそ、すべての悪の始め、原因と終わりであるから。

28

彼らは狂乱して喜び、偽りを予言し、あるいは不義に生き、たやすく偽証する。

29

魂のない偶像に信頼して、偽誓をしても罰せられるとは思いもしない。

30

二つの罪故に審判が彼らに臨むであろう。すなわち偶像に固着して、神について不義の思いをいだき

聖なるものを軽蔑して、不正にも偽り誓ったことである。

31

というのは誓う者の力ではなく、罪を犯す者への処罰がいつも

不義なる者の犯行を追跡するからである。』

(聖書外典偽典 2 旧約外典/日本聖書学研究所編/教文館P50-52から引用)

 

アイドル(偶像、または他人であるところの教祖など)崇拝の対極に自分自身に向き合うという冥想がある。

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どこにもない国=今ここ

2023-09-16 10:01:14 | 真剣から無駄へ-世界の戯れneo

◎OSHOバグワンの逍遥訣解説-4

(2022-07-10)

 

さて第四ステップまで到達したらようやく奥の奥の奥のそのまた奥が明かされる。

 

『そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある―――

どこにもない国こそ、真のわが家である。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP435から引用)』

 

OSHOバグワンの解説は、

『さあ、ここではじめてあなたは自分が存在していないことに気づく。だが、自分が存在しないといっても、それはたんなる空虚な状態を意味するものではない。あなたのなかの人格は姿を消すが、臨在が現れてくる。内側にあった<存在>からの分離感は消え失せるが、全体があなたのなかに宿るようになる。あなたはもはや孤島ではない。今や自分がどこにいるかをつきとめるすべはない。 それゆえに・・・・

 

どこにもない国こそ、真のわが家である。

 

もう自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言うことはできない-――それこそが真のわが家だ。 この、“どこにもない”というのは、実にすばらしい言葉だ。』

(上掲書P435-436から引用)

 

自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるのが第四ステップ。彼は、神はどこにでも存在していて、その上で自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるという、想像しづらい“現実”を突き付ける。ところがこれぞ『真のわが家(無何有郷は是れ真宅なり)』

 

そこでさらに『今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。今ここで神を見いだすことができなければ、どこへ行っても神を見つけることはできない。この瞬間、まさにこの瞬間に・・・・・・・

 

三つのステップが実現され、第四のものが達成されたら、これが起こる。これは秘法のなかの秘法だ。―――神はどこかに腰かけている人物ではない。神が人物として知られることはけっしてないし、人物として知られたことも一度もない。

 

神を人物として認知した人々はみずからの空想にだまされていただけだ。キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだしている。クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、あなたは夢をつむぎだし、夢を投げかけている。それはあなたの夢を見る心の働きだ。

 

真理は人物ではないし、真理はどこかに、外にあるものではない。それは客体として見つかるものではなく、みずからの目撃しつつある主体だ。そしてそれは、あなたの男と女が消えてひとつになってはじめて実現する。』

(上掲書P437-438から引用)

 

時間もなく、場所もなく、すべてが神であるどこにもない場所、それが男女の別を超え、えり好みをしないという第四ステップを超えると起きてくる。

 

さらに彼は、いわゆる人格神を真っ向から否定する。キリストの姿を見るのも空想であって、“神”ではないとする。

いわゆる高級神霊は、個別神格を持つが、それは“神”“主神”ではないと、見事に否定してきている。神様は白髭のおじさんではない。この部分は既成大宗教では、物議をかもすところかもしれないが、真相は彼が説明しているとおりなのだろう。

 

◎冥想の効用のない部分、ある部分-21

◎冥想の効用のない部分-20

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-19

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芭蕉の師仏頂和尚のこと

2023-09-16 09:50:16 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎仏頂の純粋な道心をしのぶ

(2012-12-18)

 

一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。そういうところは大学受験にはまず出ないだろうが。

 

芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。

おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が、仏頂和尚が庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に

「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵

むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡を訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。

これを見て、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。

 

木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立

 

夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。

 

山形立石寺の

 閑さや岩にしみ入蝉の声 

が聞こえそうな句である。

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ダンテス・ダイジの好きな芭蕉三句

2023-09-16 07:01:27 | 達磨の片方の草履

◎ほろほろと 山吹散るか 滝の音

 

ダンテス・ダイジは、芭蕉のことを評価していた。彼が好きだった三句。(参照:君がどうかい?/渡辺郁夫編p129)

 

ふと見れば なずな花咲く 垣根かな

※これは、続虚栗(ぞくみなしくり)という句集にある「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」である。普段は気にも留めぬなずなの白い花だが、波もない水面の如く落ち着いた心には、よく映って来る。

 

旅人と わが名呼ばれん 初時雨

※これは、笈の小文にある。前書に「神無月の 初(はじめ)、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」とある。奥の細道序文に「月日は百代の過客にして」とあるように、寄る辺なき旅人気分が芭蕉にはいつもある。それは、芭蕉が旅から旅の人生だからというわけでもなく、覚者の孤独の影が差している。ダンテス・ダイジは、神人合一したことで、何もかも見知らぬ世界に生きることになり、帰る家を失った。郷里がなくなれば、彼は旅人でいるしかない。そのことを道教の大立者呂洞賓は、無何有郷と呼ぶ。

その心情を覚者の社会性喪失から来るところの寂寞とだけ見るのでは浅い。六神通と言われる超能力を駆使できてもそこは残るのだろう。悟ると世界は逆転するが、世界の逆転とはそのような旅人となることなのだろう。

 

ほろほろと 山吹散るや 滝の音

※これも、笈の小文にあるのだが、「ほろほろと 山吹散るか 滝の音」で、一文字違っている。吉野川のごうごうたる滝の音を遠くに聞きつつ、桜にも劣らぬほどに咲き誇った山吹がほろほろと散っている。ダンテス・ダイジは、「このほろほろがよい。」と嘆じている。

 

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けている。

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残暑の筋トレ事始め

2023-09-15 03:42:10 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎瘦せた筋肉の回復、プランク、禊

 

1.筋トレ

一か月前から上半身筋トレを始めた。ダンベル代わりに1.5Lペットボトル。時間は、一日10分で、メニューは、Caroline Girvanのyoutubeで、上半身ダンベル。

10 Min DUMBBELL UPPER BODY WORKOUT at Home

Caroline Girvanのよいところは、目線が、きっちり「教えてあげる」目線であるところ。小柄だが雰囲気も明るく説得力がある。

 

さて老境に入って生涯初めての筋トレ。最初の頃は、何度もペットボトルを落としそうになり、掌のひら周辺の筋や、ひじや二の腕の筋が痛んでいた。

この筋トレは、腕ばっかりだが、両腕を差し上げるポーズ

があり、これは自ずと臍下丹田にも力が入り、思わず両足を踏ん張る。天の鳥船など禊の神事では、“渾身で”という注意事項があるが、この踏ん張りこそが渾身だと思う。自重ではない運動にヒントあり。

もともと腕はほとんど筋肉がついていないような具合だったので、まだペットのダンベルを更に重くするまでには至っていない。ただ、腕全体の血行がよくなったっぽいことと、あおむけに寝た状態で両腕で頭上に本を開いて読めるようになったこと(40年ぶりか)が効果と言えば効果。

一般に筋トレは、筋肉破壊、修復の期間があるので、3日に一回程度がよいなどと言われるが、1日10分だけでもあり、ほぼ毎日やっている。カーリングの藤澤五月さんを目指しているわけでなく、主目的は痩せた筋肉の回復と身体全体の血行増加。

 

2.プランク

プランクもやり始めて1か月程度。最初は10秒だったが、今は50秒まで延びた。きっかけは、将棋の西山朋佳女流三冠が足痛のため長時間の坐り対局に耐えられず不自然な姿勢で対局していたのだが、治療のためテレビでプランクをいきなり30秒もやらされていたのを見たため。

プランクはうつ伏せで両肘を立てて胸から下半身を一直線に伸ばす姿勢を維持するもの。これで腹からお尻、腿にかけての血流がドッコンドッコンするもの。上半身と下半身をつないで、これほど血流を直接に動かすとは驚かされた。静止姿勢だが、重要なポーズだと思う。

 

3.古神道の禊の神事

禊の神事には、以下の5種あるが、合気道の植芝盛平の動画や、青森総鎮守善知鳥神社の禊(みそぎ)行事作法次第のYouTube

を参考にして、雄詰(をころび)の禊までは毎日やるようになった。伊吹の神事は、今のところ出口王仁三郎の説明に近い動画が見つかっていない。

(1)振魂の行事

(2)天の鳥船

(3)雄健(をたけび)の禊

(4)雄詰(をころび)の禊

(5)伊吹の神事

いずれも基本は、下方三チャクラである臍下丹田(スワジスターナ)強化を狙う行だが、そうではない部分も一部含まれている。

 

この夏の猛暑日も80日を超えた。涼しくなりかけた時に体調を崩しやすいが、今年は異常熱波の長い夏の後だから、余計に体調に配慮が必要だと思う。

 

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イスラムの聖女ラービア-3

2023-09-14 06:28:17 | 人と神の「実際のところ」

◎天国と地獄を超えて

 

『伝えられるところでは、ある日町の名士たちの集団がラービアのもとにやってきた。ラービアは、そのうちの一人に尋ねた。「あなたは、神を何のために崇拝するのですか」

その一人はこう答えた。「七層の地獄は壮大です。 そして誰もがその前を通過せねばなりませんが、恐怖のあまり、上首尾に通れないのです」

また、ある者はこう言った。「天国の位階は優れた位を持ち、大いなる安らぎを約されております」

ラービアが言った。「自らの神を恐怖ゆえに礼拝したり、見返りを欲して崇拝するとは不届きな下僕です」

すると彼らが尋ねた。「あなたは、なぜ神を崇拝するのでしょうか。あなたには天国への願望がないのですか」

ラービアが言った。「家を求めるはずなのに、まずは隣人を知り、それから、家そのものを求めよ、と言うのですか。私には、彼を崇拝するということだけで充分ではないかと思われます。天国や地獄がなければ、神を礼拝してはいけないのでしょうか。理由もなく、直接に、何の介在もなしに、 彼を崇拝することは間違っているとでも言うのでしょうか」』

(イスラーム神秘主義聖者列伝 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール/著 国書刊行会P73-74から引用)

 

この地獄が現実界に実現したような時代に生きることは、生きづらいものだ。だから地獄をなるべく避け、天国的なものを希求しつつ生きるのは当たり前のことである。ところがラービアは、地獄の恐怖を緩和し、天国的なものを促進してくれるから神を崇拝するというあり方は、ちょっと違うのではないかと云う。

ラービアは天国と地獄を超えた先に神を見ている。

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イスラムの聖女ラービア-2

2023-09-13 06:40:14 | 人と神の「実際のところ」

◎神に愛され、神を愛する人びと

 

『愛について問われたラービアはこう答えた。

「愛は、始まりなき永遠から出て、終わりなき永遠へと向ったが、一万八千世界に、一人として、愛の果汁を一滴だに飲もうとする者は現われなかった。 最後に、愛は神にまで達し この言葉を残した。すなわち、“神に愛され、神を愛する人びと“〔コーラン第五章五四節〕』

イスラーム神秘主義聖者列伝 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール/著 国書刊行会P69-70から引用)

 

神あっての人であり、人あっての神。迷いあっての悟りであって、悟りあっての迷い。

有史以来一人として、愛の果汁を一滴だに飲もうとする者は現われなかったとは、生もなく死も無く人もない永遠不壊の世界のことであり、それはかえってすべての人は愛に生きているということ。

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イスラムの聖女ラービア-1

2023-09-12 06:27:52 | 人と神の「実際のところ」

◎何事も二つに分かつ不和の心

 

8世紀イスラムの聖女ラービアの言行から。

『伝えられるところでは、ある日、ラービアが四ディルハムを人にやって、「私に安手の毛布を一枚買ってきておくれ」と言うと、その者は「色は黒ですか、それとも白ですか」と尋ねた。ラービアは、即座にお金を取り返すと、チグリス河に投げ捨てた。

「まだ買ってもいない毛布のことで、黒か白か、いずれかでなければ、という何事も二つに分かつ不和の心が現われたとは」

 

伝えられるところでは、春になっても彼女は家に籠ったきりで外に出てこなかった。召使がこう語りかけた。

「御主人様、天地造化の妙を御覧になられては」

ラービアが答えた。

「あなたの方こそ中に入って、造物主を見るといい。私は、創造主そのものを真近に感得することで、造化の妙を思念することから遠ざかるのです」』

(イスラーム神秘主義聖者列伝 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール/著 国書刊行会P70-71から引用)

 

最初の毛布の話では、選り好みをする心が問題になると見て取って、お金を取り返して、チグリス河に投げ捨てた。弟子、あるいは下僕の回答が気に入らないから腹いせでお金を捨てたわけではない。求道者であった弟子、あるいは下僕に言って見せたのだ。

次の創造主そのものを真近に感得する話では、観想法などで創造主を思念することと創造主そのものを真近に感得することの優劣を述べている。

いずれも自分と創造主は別だが、距離の遠近はある。だが、ラービアは、別のところで自分と創造主との距離がない境地も明かしている。

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水が変わったとき

2023-09-11 07:03:25 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ちょっと狂っていることが正常とされる現代

 

スーフィの逸話から。

『3-水が変わったとき

 

昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時がくると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうであろう、と。

ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。

やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたのを見て、男は街に戻っていったのだった。

人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われているのに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともに聞こうとはしなかった。

男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、 ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気 から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。』

(スーフィーの物語 ダルヴィーシュの伝承/イドリース・シャー/平河出版社P24-25から引用)

 

まず、水が変わった後は、男は狂っていると周囲から見られていたこと。これは、現代のように、ちょっと狂っていることが正常とされる現代において、大悟覚醒した人物はかえって周囲から気違いだと思われていることを指す。

悟った人の特徴とは、素直であること、正直であること、情熱的であること、リラックスしていることなどと言われるが、本質的には、善いことばかり行って、悪いことをしない(諸悪莫作、衆善奉行)である。

この功利優先、お金崇拝、スーパーリッチ尊敬の異常な時代において、自分のことをさしおいて、そのような他人の幸福を優先する生き方は、気違いに見えがちなものだ。

そういう善悪の物差しを具体的に説かねばならなかった中国は、道教の善書と言われる善行悪行の基準書が歴史的に存在し続けた。有名なのは功過格。何が善で何が悪か迷うことの多い現代人にとって、功過格を眺めるのは参考になろうし、excelで善行悪行の累計フォーマットを作るのもよい。だが、積善の家に余慶(思わぬ幸福)あり、積不善の家に余殃(わざわい)あり(易経)というが、そのような同一次元上には、永久不壊の真の幸福はない。

 

この逸話の水が変わるとは、次元が変わる世界のことを言っていて、ここでは、どのように徹底的に世界が変わるのかという雰囲気を出すだけに終わっている。

そうしたほのめかしだけで、法や真理、神仏、究極を説かない説話は結構あるものだが、気がつく人は気がつくものだ。金星人とか火星人とか他の惑星の世界のことを言うのも、そのように世界が全く変わってしまうことを強調しているのであって、惑星間旅行の話ではない。

壺中天、シャンバラ、アガルタもその類だが、水が変わるには、いろいろなレベルでの変わり方があるものだ。

 

功過格について(功過格(毎日の行動を善悪に分けて採点する)) 

功過格表-1(善行篇)(功過格の実際のやり方) 

功過格表-2(悪行篇)(功過格表-2(悪行篇) )

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大都会の愚か者

2023-09-10 06:56:40 | 覚醒のアーキテクチャー

◎いったい俺は何者で、どこにいるのだ

 

スーフィの逸話から。

『23-大都会の愚か者

 

人間は眠っている。目覚めなければならない。いろんな目覚め方があるが、正しい方法はひとつだけである。これはその目覚め方が正しくなかった愚か者の話である。

ある愚か者が巨大な街を訪れたとき、通りにあふれる夥しい人々の群れを見て、頭が混乱してしま った。これだけ大勢の人々の中にいると、朝、目を覚ましたとき、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうかもしれない。そう考えた愚か者は、夜、宿屋で眠りにつくとき、自分を識別する目印 として、瓢箪を足首に巻きつけた。

それを見ていたいたずら好きの男が、愚か者の足から瓢箪をはずし、自分の足にくくりつけて眠りについた。愚か者は目を覚ましたとき、瓢箪を目にして、そこに寝ているのは自分なのだと思った。しかし次の瞬間、彼は叫びながら、その眠っている男に襲いかかっていった。「おまえが俺なら、いったい俺は何者で、どこにいるのだ!」』

(スーフィーの物語 ダルヴィーシュの伝承/イドリース・シャー/平河出版社P92から引用)

 

大学生の頃、故郷での長い夏休みを終えて上京し、新幹線を降りて電車に乗った瞬間、見知らぬ他の乗客が沢山いるのに驚いて、多数の「見知らぬ人に取り囲まれている」ことの違和感を感じさせられたものだった。

それは、後年さる体験の中で、自分が誰だかわからない、どこにいるのかわからないという認識状態を実感することになり、さらに深みを増した。その状態は、数時間で終わったが、自分は一体何者かという状態は、万人の心理の基層に存在しているものだろうという実感を得た。

あえて七つの身体論で言えば、個ではあって個人ではあるが、社会性がない状態であって、コーザル体というそれ自体がコスモスであるような個の極みというような極まった感のある状態とはとても思えなかった。

 

この『大都会の愚か者』は、自らの足首に瓢箪をつけるが、そのような心理状態に至って、やむなく自分のアイデンティティを自分で確認するためにそうしたのだろう。他人はいるのだろうが、自分が誰だかわからないという厄介な状態である。

いたずら男は、その瓢箪を奪って自分の足につけて、更に愚か者を混乱させる挙に出た。愚か者は、元の俗人の意識に戻るか、その直観から悟りに進むか、混乱に止まり発狂・自殺に行くかと、いくつかの選択肢があるのだろう。

私は、そんな風になった際、ひどく困惑したが、悟りのさの字も思わなかった。今思えば、バーナデット・ロバ-ツという女性の、自分はなくなったものの神も見つからないという状況に近かっただろうか。いや自分はなくなっていないが、神もなく、その時はまだ準備ができていなかったのか。

 

参考:

暗夜から光へ-1(暗夜について)
暗夜から光へ-2(第一夜について)
暗夜から光へ-3(第二夜について)
暗夜から光へ-4(バーナデット・ロバーツの第三夜-1)
暗夜から光へ-5(バーナデット・ロバーツの第三夜-2)
エノクは神に連れ去られた(さてその後は死ぬるばかりよ)
暗夜から光へ-6(バーナデット・ロバーツの第三夜-3)
暗夜から光へ-7(バーナデット・ロバーツの第三夜-4)
暗夜から光へ-8(バーナデット・ロバーツの第三夜-5)
暗夜から光へ-9(バーナデット・ロバーツの第三夜-6)
暗夜から光へ-10(バーナデット・ロバーツの第三夜-7)
暗夜から光へ-11(バーナデット・ロバーツの第三夜-8)
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石槍の雨の密意

2023-09-09 07:08:44 | 浅い霊感から神人合一まで

◎人の生き血を食らう人の頭を砕く石の雨

 

9月8日の仕組について参考となる石槍の雨(霊界物語第16巻第六章)の密意について。

この部分のあら筋は、

  1. 神素盞嗚大神、国武彦命、また亀彦、英子姫、悦子姫らは聖地桶伏山の蓮華台上に上り、天神地祇・八百万の神々を集めた。神素盞嗚大神は、国武彦に何事かを密かに任命し、ミロク神政の三十五万年後の再会を約して、丹頂の鶴に乗って東を指して飛んでいった。
  2. 国武彦命は亀彦、英子姫、悦子姫らに何事かをささやき、万神に厳格な神示を与えた後、ひとり四王の峰の彼方に姿をお隠しになった。
  3. 残った亀彦らは再び大江山に進むこととなった。ところが悪玉の鬼彦らは、秋山彦の館を襲い、遠く去ったはずの神素盞嗚大神、国武彦を始め、秋山彦ら三五(あなない)教の七神人たちを生け捕って、その駕籠を担ぎながら悪の本拠地大江山の山道を登っていった。
  4. すると、一行を石つぶての槍雨が襲ってその場に打ち倒されてしまう。気がつくと、捕らえたはずの神素盞嗚大神らは駕籠を抜け出して、笑っている。
  5. なおも悪玉軍団は改心しないので、天から今度は鉄の切っ先の槍が雨あられと降って来て、悪玉軍団は重傷を負う。
  6. 秋山彦は天の数歌を唱えた。すると悪玉軍団らの身体は癒え、あちこちに喜びの声が満ちた。秋山彦が三五教への帰順を促す宣伝歌を歌うと、悪玉鬼彦らは感謝の涙に咽んだ。
  7. 悪玉軍団の様子は、皆虱の如き弱虫な人の生血を朝夕に 漁って喰らう奴ばかりであって、沢山絞つて蓄えた身体の中の生血をば、吐き出すための神の業が、頭を砕く石の雨なのだと説明している。

 

霊界物語では、悪玉の命を奪うことなく、生かしたまま改心させる。悪玉を命の危険があるような重傷にさらして、マントラでその怪我を回復させて、神威を悟らしめれば、善人として復活するというのは、思えば何でも現実化する霊界風の安直さだが、現世の人にはそこはやや説得力がないように思う。この部分が密意。

また人の生き血を食らう人の頭を砕く石の雨のくだりも密意。

もう一つの密意としては、神素盞嗚大神、国武彦など善玉軍団の中心メンバー全員が拘束され、悪の本拠地大江山に護送されるようなことがあるということ。これは、本物の聖者であるほど殺されがちという法則に則るもの。

さらにもう一つの密意としては、善玉軍団に石つぶても鉄槍も降り注ぐがなぜか当たらず、悪玉軍団にだけ当たるということ。これを子供だましと考えない人だけが真相を知るのだろう。

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2020年オリンピックの東京開催決定

2023-09-08 16:47:13 | 時代のおわりneo

◎九月八日のこの仕組み

(2013-09-08)

 

2013年9月8日、2020年のオリンピックの東京開催が決戦投票の末、決定された。

神秘学に興味のある人なら、9月8日がどのような日であるか知っているだろう。

 

さて前々回の東京オリンピックは、1936年に3市(東京、ローマおよびヘルシンキ)の争いの末、1940年(昭和15年)のオリンピックを東京開催とすることが決定されたが、結局戦争のため、日本は開催辞退を余儀なくされた。

 

1964年の東京オリンピックは2回目だった。東京五輪開催期間中の1964年10月16日、中国は初めての核実験を行い東京の各国選手に放射能を浴びせたりしたこともあった。今回も中国のやっかみあるだろうね。

 

出口王仁三郎は、九月八日のこの仕組みとは、世の立替立直しのことと説明している。この日は、霊界物語を起草し始めた日であり、霊界物語のことであるとする。霊界物語とは誠の神を打ち出すことであり、特に霊界物語の次の部分に密意ありとする。

 

第16巻第六章 石槍の雨

 この章は鉄の槍による戦役であり、ミサイルによる熱核戦争と、クンダリーニ・ヨーガによる放射線障害治療のことだろう。

 

第26巻第二章 真心の花(一)

 みろく神政成就の基礎確立し、五種の神宝=天火水地結の竜宮の麻邇の玉の安着を言祝ぐ場面。

 

第26巻第六章 大神宣

素盞嗚尊の神歌と国武彦命の神歌。どんなに時代が乱れていようとも、みろく神政の成就に邁進せよとの主旨。

 

以下の素盞嗚尊の神歌の最終部分にその意が尽くされている。

「朝日は照るとも曇るとも  月は盈(み)つとも虧(か)くるとも

 仮令(たとえ)大地は沈むとも   厳(いず)と瑞(みず)との此仕組

 千代も八千代も永久(とこしえ)に  変らざらまし天地の

 初発(なりで)し時ゆ定まりし  万古不易の真理なり

 万古不易の真理なり  此世を造りし神直日(かむなおひ)

 心も広き大直日    只何事も神直日

 大直日にと見直して  天地百(あめつちもも)の神人(かみびと)を

 救はむ為の我(あ)が聖苦(なやみ)  思ひは同じ国治立の

 神の尊の御心     深くも察し奉る

 深くも感謝し奉る」

 

 

これまでの九月八日は、流石にビッグイベントが並ぶ。

 

慶応四年(1868年)九月八日、明治と改元

昭和26年(1951年)九月八日、サンフランシスコ講和条約 調印(事実上の日本独立)

 

2020東京五輪は、悠仁様のご誕生と同類の、日本人に与えられた、元の予定にはなかったモラトリアムのような気がする。

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9月8日のこの仕組雑感

2023-09-08 07:49:46 | 浅い霊感から神人合一まで

◎日付としての9月8日とシンボルとしての9月8日

 

2023年9月8日は、本州を台風が直撃している。

『9月8日のこの仕組』については、過去何回か書いているが、暦日・日付としての9月8日とシンボルとしての9月8日という意味がある。暦日・日付としての9月8日は、その日付を神様がお使いになったということで、それなりの意味はあるが、我々凡俗にとっては、自分自身の覚醒という点でシンボルとしての9月8日の意味の方が大きい。

 

1.暦日・日付としての9月8日

 1868年九月八日 明治と改元。

 1921年九月八日 出口王仁三郎霊界物語の開始の神命を受ける。

 1931年九月八日 満州事変勃発。

 1945年九月八日 出口王仁三郎、治安維持法、不敬罪共に棄却(約7年収監、1942年8月7日に保釈)。

 1951年九月八日 サンフランシスコ講和条約 調印。

 

2.シンボルとしての9月8日

9月8日とは、至福千年つまりみろくの世のスタートを9月9日としてその前日。現代はその前夜であり、9月8日の晩に当たる。

花は咲いて実を落とし再生する。これが梅で開いて松で治める、その間に竹という最終戦争が挟まっている、松竹梅。時系列で言えば、先に完成である松があるのは変だと思うかもしれないが、これは、ニルヴァーナを先に置く、古代秘教風の書き方であってオカルティスト的には普通ではある。

9月9日は、ニルヴァーナであり、モクシャであり、至福千年だが、四四十六の十六菊で表現する。ツクシは筑紫で尽くしだから、十全、完成の義。

 

『九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治めるといふ意義である。九月とは松で治める意義、八日とは梅で開く意義である。』(霊界物語第7巻総説から引用)

さらに、

『今日は九月八日という記念すべき日であります。由来大本では九月八日を非常に尊重するのであります。何故なれば九月九日は菊の節句であり、九月八日は之に先立つ事一日であつて、何事も世の中に先端を切り、来らむとする事を前つ前つに覚つて実行してゐるからであつて、之を九月八日の仕組といふのであります。

 又五月五日は菖蒲の節句でありまして、六菖十菊といつて六日の菖蒲は後の祭であり、十日の菊はもう時節が済んでゐるのであります。宗教家でも、政治家でも、教育家でも、悉く世の後端を行つてゐるのに反して、皇道大本は常に九月八日の仕組で先端を進むのであります。

 霊界物語を始めましたのは大正十年旧九月十八日でありましたが、御神命は九月八日に降つたのであります。その時は恰も大本事件、九月五日の第一審で懲役五年を言ひ渡された当時で、その日から三日目に神命が降つたのであります。』

(出口王仁三郎全集第5巻言霊解・其他_【随筆・其他】_九月八日の仕組から引用)

加えて、

『まして神様が因縁によりお引きよせになった皆様方は、最も責任の重い因縁があって御出でになったのであって、此の際は只今迄とは違って、めいめいに鉢巻を締め、褌を締めて、そしてせかず、あわてず、時の推移に従って、少しずつ早く、時代よりも早く活動する様に、九月八日の晩より、即ち九日より一日前であり、凡て大本は世界から出て来るものより早く出て来るのですから、此の考えで世の中より遅れない様に、御一同に御活動あらん事を希望する次第であります。』

(出口王仁三郎著作集第5巻人間王仁三郎_第1部自叙_野に生きる_梅花ひらく_開教四十周年から引用)

 

以上を受けて、ある年の9月8日に何か重大事件があるかと言えば、それはそうかもしれないが、個人にとっては、神一厘の仕組みが起こる前に一刻も早く神を知り神人合一を実現することが求められるということである。

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