◎見守ることを通して奇跡が起こる
意識の流れと言えば、小説家のジェイムズ・ジョイスやマルセル・プルースト。若い時に読んで全然面白いとは思わなかった。
意識の流れ、心理の流れといえば、精神方面のことであって、物質方面、現実のできごと方面のこととは、まず思わないのだろうが、実はそこにのっぴきならない、ままならない現実がある。
ニルヴァーナ、悟りは、物質でもなく、心理でもなく、精神でもなく、感情でもないことを原始仏教の9段階説は示しているのだが、OSHOバグワンは、ここに現実とは、ニルヴァーナがはさみ込まれていることを示す。
その発想は、ヨーガ・スートラを描いたパタンジャリもそうだっただろうとOSHOバグワンは見ている。時間とは、〈現象〉〈現象〉〈現象〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉と進行しているのが、隙間理論であって、古代インドのパタンジャリの見方。この〈現象〉には、心理も意識も感情も現実の出来事も含まれる。〈隙間〉の存在に気づけば、〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉の全体が意識の流れであって、その時ウパニシャッド以来の求道者にとってほとんど最後のテーマである『睡眠時の夢のない時間帯こそ神』に至る。
以下は、OSHOバグワンの隙間理論に関する断片。
『至福 BLISS
至福はかぐわしい香りだ。 それをじかに手に入れることはできない。あなたはバラの繁みを育てなければならない。バラの花が咲いたら、香りは自然に放たれる。至福は瞑想のかぐわしい香りだ。瞑想とは、もっともっと静かになることだ。
喧しい人は至福に満ちることができない―――彼には沈黙の音楽が必要だ。だが私たちの心はあまりにも騒がしい。私たちは頭のなかにまるごと世間を、あらゆるたぐいのガラクタを持ち運んでいる。しかも私たちはひとりではなく、内側では群衆、多くの人々であり、彼らは絶え間なく口論し、闘い、互いを支配しようとしている。心の断片のひとつひとつが優位に立とうとしている。絶え間のない内なる政治がある。この絶え間のない内なる戦争のなかに至福を見つけることはできない。
至福は、この絶えざる戦争がやんで初めて生まれてくることができる。それを終わらせることはできる。それを超えることはそんなに難しいことではない。必要なのは〈気づき〉だけだ。私たちはこの打ち続く現象全体に気づいていない。それは底流のように内側で続いている。私たちはほとんどそれを意識していない。昼も夜もつねにそこにあるが、私たちはそれに意識的ではない。
それに意識をもたらしなさい。ゆっくりと、喧騒の微妙な層を見守っていると、だんだんとあなたは頭のなかに精神病院と見まがうばかりのおしゃべりがあることに気がつくようになる。私たちはこの悪夢のなかに暮らしている!
見守ることを通して奇跡が起こる。見守ることができたものはすべて消えてゆく。それが蒸気のように消えてなくなる瞬間、あなたのもとには深い静寂が残る。最初のうちは間合い、思考がやんだときの小さな透き間、実在を見ることができる小さな窓があるだけだ。だが、この透き間は少しずつ大きくなってゆき、もっと頻繁に来るようになり、そしてもっと長くそこにとどまるようになる。
この透き間は古代の神秘家たちによって割りだされてきた―――私は彼らにまったく同意する―――四八分間、まったき沈黙のなかにとどまることができるなら、その人は光明を得て、絶対的な至福に満たされるようになる。そうなればそれは永久に続き、あと戻りすることはない。あなたは彼方へとおもむき、時間とその移ろいゆく砂原を超えた場所に到達している。永遠なるものの岩盤に到 達している。人はここで初めて自らの不滅性を了解する。
これがサニヤスの究極の目標だ。
THE GOLDEN WIND』
(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP275-276から引用)
現象が、蒸気のように消えるのは、色即是空。
この隙間は最初小さいとは、クリシュナムルティも釈迦も空海もこの隙間であるニルヴァーナを明星と見ていたが、やがて大きくなっていったことを指すのだろう。
この透き間がだんだん大きくなって、毎日来ていたのが、クリシュナムルティのotherness。
48分間、隙間・ニルヴァーナに居られれば不退転となるとは、計測していたのだろう。
悟りに必要なのは、隙間への〈気づき〉だけだ。