貞觀政要や正史の中で名君を偽装している唐二代太宗皇帝の失政の記録
をたどってみよう。
もちろん若い頃の太宗(秦王世民)が名将である事は間違いないし、秦王の
周りに有能な家臣団が結集し、皇太子建成や齊王元吉と対立したことは、初
代皇帝高祖の失策であるから太宗に責任はない。そしてその対立を放置した
無策な高祖が押し込められたのもしかたがない。
玄武門において皇太子建成や齊王元吉を襲撃して殺害したのは、正史におい
ていかにごまかしていても太宗側の一方的攻撃であることは間違いない。
皇太子である建成はそのような非常手段を必要としていないのだ。
そして建成や元吉の子供を幼児に至るまで虐殺したことも弁解できない。
太宗はその家臣団も誅殺しようとしたのだが、兄弟・親族・友人が別れてい
る自派の家臣団の反対にあってあきらめて処罰しないことにした。これも
太宗の寛大さにすり替えられている。
事件後、不遜にも自ら高祖の所に赴かず、猛将尉遅敬に威嚇させて皇太子
位を奪取したことは、弁解の出来ない自分の行為を恥じたとも言える。
しかしやがて高祖を押し込めて皇帝位を簒奪した。
簒奪に同調しない一族の幽州都督盧江王瑗を、將王君廓に挑発させて殺害
したのはやむを得なかったのかもしれないが、あとで秘密を知る君廓を始
末せねばならないことになる。
これに対して宗主国である突厥頡利可汗は大兵を挙げて侵攻し、その罪を
責めた。兵力に劣り、しかも道義にも反する太宗は、自ら可汗の下に赴いて
謝罪し、多くの貢ぎ物を差し出して臣従を誓った。これが正史では渭水便橋
で格好良く正対したことに偽装されている。
さすがに太宗は屈辱を感じたのであろう。対突厥戦の準備に勤しんでいる。
次回からは編年式に、武徳九年十月からの失政の記録を述べていく。
をたどってみよう。
もちろん若い頃の太宗(秦王世民)が名将である事は間違いないし、秦王の
周りに有能な家臣団が結集し、皇太子建成や齊王元吉と対立したことは、初
代皇帝高祖の失策であるから太宗に責任はない。そしてその対立を放置した
無策な高祖が押し込められたのもしかたがない。
玄武門において皇太子建成や齊王元吉を襲撃して殺害したのは、正史におい
ていかにごまかしていても太宗側の一方的攻撃であることは間違いない。
皇太子である建成はそのような非常手段を必要としていないのだ。
そして建成や元吉の子供を幼児に至るまで虐殺したことも弁解できない。
太宗はその家臣団も誅殺しようとしたのだが、兄弟・親族・友人が別れてい
る自派の家臣団の反対にあってあきらめて処罰しないことにした。これも
太宗の寛大さにすり替えられている。
事件後、不遜にも自ら高祖の所に赴かず、猛将尉遅敬に威嚇させて皇太子
位を奪取したことは、弁解の出来ない自分の行為を恥じたとも言える。
しかしやがて高祖を押し込めて皇帝位を簒奪した。
簒奪に同調しない一族の幽州都督盧江王瑗を、將王君廓に挑発させて殺害
したのはやむを得なかったのかもしれないが、あとで秘密を知る君廓を始
末せねばならないことになる。
これに対して宗主国である突厥頡利可汗は大兵を挙げて侵攻し、その罪を
責めた。兵力に劣り、しかも道義にも反する太宗は、自ら可汗の下に赴いて
謝罪し、多くの貢ぎ物を差し出して臣従を誓った。これが正史では渭水便橋
で格好良く正対したことに偽装されている。
さすがに太宗は屈辱を感じたのであろう。対突厥戦の準備に勤しんでいる。
次回からは編年式に、武徳九年十月からの失政の記録を述べていく。