唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その2 

2014-03-27 09:42:09 | Weblog
武徳九年 「 」は通鑑データ
10月
「詔追封故太子建成為息王,謚曰隱;齊王元吉為剌王,上哭之于宜秋門,甚哀。」
さすがに兄弟を殺害したのは寝覚めが悪かったのであろう、葬儀だけは行っているが
「隠」だの「刺」など悪声は忘れていない。
「立皇子中山王承乾為太子,生八年矣。」
自系統が皇統を独占するために幼児を慌てて立太子した。これが後の魏王との紛争の
種になる。唐皇室は漢人ではなく蕃族の鮮卑系であるため、兄弟相続の伝統があり、
 それを防ごうとしたともいえる。
「初定功臣實封有差」
 自派の功臣達に實封を大盤振る舞いして人気取りをした。これによりまた再建途上の
 財政が苦しくなった。唐の封侯の戸数(**開國郡公.封二千戸等)は虚構で有り、単
 なる名称でしかない。しかし 實封は唐末を除き実収があった。
「瑀、叔達皆坐不敬,免官。」
 太宗にとって扱いにくい、高祖時代の宰相達が争い、特に名門出身で目障りな蕭瑀
 (梁の皇族)と 陳叔達(陳の皇族)を解任した。

11月
「降宗室郡王皆為縣公,惟有功者數人不降。」
 功臣に實封を与えて財政難になったことでもあり。目障りな宗室の郡王達を縣公に降
 した。もちろん功績大なもの数人は除いた。

12月
「上患吏多受賕,密使左右試賂之。」
収賄する官吏を罠に掛けて誅殺しようとして、裴矩に諫言された。

貞觀元年正月
「右驍衛大將軍長孫順受人饋絹,事覺」
 法を厳正に執行すると宣言しながら、法を犯した親族の順を処罰せず、反って物を与
 えている。しかも「恥を感じさせているのだ」と強弁している。順という蕃人はその
 後も一向に「恥」た様子はない。
「天節將軍燕郡王李藝據州反。」
 幽州を唐に献じた功臣李藝(羅藝)を挑発して反させて誅殺した。弟利州都督壽も坐
 させた。地盤の幽州から切り離し州に置いていたが、太宗と同じように武勇を誇る
 藝が邪魔であったようである。

2月
「命大加並省,因山川形便,分為十道」
 高祖時代に来附した諸侯の封地となっていた諸州を整理して取り上げた。これは功績
 かも知れない。

4月
「賜死涼州都督長樂王幼良」
 目障りな皇族の整理である。挑発して謀叛を企画させて殺した。

7月
「會大雪,雜畜多死,連年饑饉,民皆凍餒。頡利用度不給,重斂諸部,由是內外離怨,
 諸部多叛,兵浸弱。」
 突厥の弱体化を聞き、先年の恥を晴らそうとしたが、長孫無忌から準備不足を諫め
 られた。太宗は隋の煬帝と同じで戦争好きである。

9月
「幽州都督王君廓謀叛,道死。」
 廬江王瑗を除くのに利用した幽州都督王君廓を謀叛させ処理した。
「嶺南酋長馮盎、談殿等迭相攻擊,久未入朝,諸州奏稱盎反」
 嶺南酋長馮盎を疑い討伐しようとするが、魏徴に諫言される。

12月
「利州都督義安王李孝常等謀反,伏誅。」
 高祖の功臣利州都督義安王李孝常を謀反させ誅す。右武衛將軍劉裕・統軍元弘善
 監門將軍長孫安業も坐す。「走狗煮られる」の口である。

是歳 
「鄃令裴仁軌私役門夫,上怒,欲斬之。」
微罪の官吏に対して、太宗は法を無視して厳刑にする傾向があり、李乾祐に諫言される。