唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

王智興伝

2019-06-17 11:59:15 | Weblog
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王智興伝
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智興、字は匡諫、懷州溫の人。

曾祖靖は左武衛將軍、祖瓌は右金吾衛將軍、父縉は試太子詹事。

若くして勇敢で徐州の牙兵となり、刺史李洧[淄青節度使正己の從父兄]に仕える。

建中二年.正己没後、其子納が自立した時、洧は徐州をもって唐朝に帰順した。
納は徐州を攻め、智興は急使として京師に来援をて援軍を得た。
功績により滕、豐、沛、狄四鎮將と昇進していった。

元和十年十二月.淮西吳元濟の乱に、淄青李師道は共謀し徐州を攻めた。節度使李愿[晟の子]は智興を将として反撃させ連破した。本軍都押衙.侍御史を帯した。

十三年.師道を伐ち金鄉を攻め、魚台を抜いた。御史中丞に進む。

十四年.沂州刺史。
  
長慶元年十月.節度使崔群の命で成徳王廷湊を伐ち、檢校左散騎常侍充武寧軍副使河北行營諸軍都知兵馬使。
黄河を超えて攻撃していたが、群は疑いその軍權を奪おうとした。

二年三月.智興は歸鎭して群を攻めて逐い、自立した。
京師への鹽鐵銭や貢物を奪い、商人から強奪、濠州刺史侯弘度を逐った。
河北三鎭との戦いで疲弊した唐朝は智興を伐つことができず、檢校工部尚書徐州刺史御史大夫充武寧軍節度徐泗濠觀察使として認めることで糊塗した。

その後も智興は淮南からの交易に私税をかけて軍備をととのえていった。

八月.宣武軍将李騕が節度使李愿を逐い宋州を攻めると、智興は唐朝を支援してこれを破り、檢校尚書左僕射、検校司空と進んだ。

四年十二月.泗州に戒壇を置いた。

太和元年七月.横海李同捷が叛すると、智興は全軍をあげて伐つことを請い、

十二月.檢校司徒同中書門下平章事滄德行營招撫使となった。

二年九月.唐朝の諸軍がまともに戦わない中、智興は勇戦し棣州を抜き、同捷平定の最大の功労者となった。守司徒となる。

三年二月.軍内で勢力を持つ将石雄を逐い、その党を誅した。

十一月.入朝し守太傅.封雁門郡王となり兼侍中に進んだ。

智興は元同僚達が多く、専横で扱いにくい武寧軍節度から離れることを望み、
六年三月.許州刺史忠武軍節度陳許蔡等州觀察使

七年九月.河中尹河中節度晉磁隰觀察等使に遷る。

九年五月.汴州刺史宣武軍節度宋亳汴穎觀察等使へ。

開成元年七月.鎭に卒した,七十九歳.贈太尉。
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