唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

何士幹伝

2019-06-16 15:40:00 | Weblog
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何士幹伝
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新旧とも伝はない。

大暦十二年七月。諫言を賞され左拾遺より左補闕。

興元元年五月.淮西李希烈に貢納の道が閉塞されていたが、浙西韓滉は行在にいる德宗皇帝に献納を図った。幕僚であった士幹は苦心してそれを成し遂げた。

諫議大夫。

貞元四年六月.鄂岳沔蘄黄等州都團練觀察使.御史中丞。

八年正月.獻白鹿。

十二年二月.加御史大夫。

十八年.鎭に卒する。鄂州統治は十五年に及んだ。
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皇甫溫伝

2019-06-16 15:36:14 | Weblog
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皇甫溫伝
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新旧とも伝はない。

廣德元年十月/二月.魚朝恩部將より陝州刺史/陝州大都督府長史。

大暦元年十二月.華州周智光は元々同僚である溫と仲が悪く、溫の監軍張志斌が入奏するため華州に滞在したが横暴であるとして憤激し殺した。

五年正月.朝恩が専権横暴であったため、宰相元載は警護將周皓と、外部の兵を握る陝州節度使溫に重賂して籠絡した。これには代宗皇帝も関与していた。溫は朝恩を油断させるために鳳翔節度使となった。

三月.朝恩が誅された後、温は陝州節度使に戻った。

九年八月.越州剌史充浙東觀察使.御史大夫。

邠國公。

十一年.鎭に卒した。贈太子大師。
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嚴震伝

2019-06-16 15:34:16 | Weblog
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嚴震伝
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震、字は遐聞で梓州鹽亭の人。

代々豪農であり、辺境軍を支援して官を得た。

梓州長史、王府諮議參軍を歴任。

東川節度使嚴武が合州長史/刺史に任用。

嚴武が西川節度使に遷ると押衙,改恆王府司馬。

武と同姓のため信任され軍府の事を一任され、銀靑光禄大夫.試衛尉少卿、太常少卿/卿を帯びる。

嚴武卒後郷里に戻るが、姻戚である東川節度使李叔明は渝州刺史とした。

疾免を経て山南西道節度副使.鳳州刺史.摂侍御史。

丁母憂罷。起復本官,興鳳兩州團練使.開府儀同三司兼殿中侍御史→御史中丞.馮翊郡公に進む。
政績よく賞賛される。

建中初,黜陟使より理行山南第一と讃えられ、特賜鄖國公。
鳳州を統治すること十四年、能政であった。

建中三年十一月.賈耽に代わり梁州刺史兼御史大夫山南西道節度営田觀察等使に進む。

朱泚・李懷光の乱に德宗皇帝が籠もる奉天を支援。

興元元年二月.德宗皇帝が山西へ避難し、震は叛将を誅してこれを迎えた。
加檢校戶部尚書,馮翊郡王.賜實封二百戶。

三月.德宗は梁州に至るが、山南は貧しいため、安史の乱の前例を考えさらに西川成都府への移動を検討した。

しかし震は京師回復を図る李晟達を支援するためには、遠隔の成都では不便ですと反対した。

そして震は貧しい山南の地よりの収入をやりくりし行在の費用を支弁した。

六月.京城が収復され、德宗は京師に戻った。功績により檢校尚書左僕射。
山西梁州を興元府とし、震を興元尹.賜實封二百戶。

貞元八年十一月.吐蕃を芳洲に破った。

十二年二月.山西節度使としては異例の同平章事を与えられた。

十五年六月.現職で卒し、七十六歳.贈太保.諡曰忠穆。
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