唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

韋倫伝

2019-06-20 22:06:18 | Weblog
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韋倫伝
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倫は京兆出身。

父光乘は朔方節度使だった。

倫は蔭位で藍田尉、鑄錢內作使判官[楊國忠]。吏事に長じていた。

大理評事。

玄宗皇帝について劍南に避難、監察御史劍南節度行軍司馬.置頓判官。

屯田員外郎兼侍御史。

宦官の横暴を抑えるが、憎まれ、貶衡州司戶參軍。

度支使第五琦の薦めで商州刺史荊襄道租庸使となり漕運路を保つ。

山東節度將康楚元が乱し、山東・荊南を寇掠する。

乾元二年十一月.倫は征討使崔光遠を待たず鄧州に進み、賊を破り楚元を捕らえた。
功績により衛尉卿兼寧、隴二州刺史.招討處置等使。

三年四月.また山東將張瑾が節度使史翽を殺して乱し、倫は襄州刺史山南東道襄鄧等十州節度使御史大夫となるが,宦官李輔國に仁義を切らず、秦州刺史御史中丞本州防禦使に降される。

上元元年十二月.吐蕃や黨項が次々と入寇し寡兵で対応できず敗北し、貶巴州長史、更に貶思州務川尉。

代宗が即位し輔國が除かれると、忠、台、饒三州刺史を歴任する。

廣徳元年十一月.宦官呂太一が嶺南で反すると、韶州刺史兼御史中丞韶連柳三州都團練使として伐つ。

しかし太一が宦官勢力に反間し、貶歴信州司馬、虔州司戶、隋州司戶、隨州司馬。

失職し十年の間、豫章で退隠していた。

大歷十四年八月.德宗皇帝は、危険な吐蕃に使するものを求め、倫を太常少卿兼御史中丞持節充通和吐蕃使に抜擢し、留置していた吐蕃俘五百人を返した。
倫は吐蕃に至り、王である贊普に和親に転じることを説いた。
吐蕃は入獻し、喜んだ德宗は太常卿兼御史大夫銀青光祿大夫。に進めた。
吐蕃は涇原劉文喜の乱においても唐朝軍を妨害しなかった。

建中元年五月.再び吐蕃に使し尊重された。

倫は宦官や不正を憎み正論を言い立てるため、宰相盧杞に憎まれ、閑職の太子少保に移される。

德宗皇帝の奉天籠城に随行した。

直言し盧杞の再任用に反対し、太子少師致仕、郢國公。

最後まで正論を貫き、叛臣李楚琳や李忠誠を憎み、義倉や備邊を献言した。

貞元十四年十二月.卒し八十三歳.贈揚州都督.諡曰肅。