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康日知伝
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新紀のみ記載。
祖先は西域康国の出身で靈州に移る。
祖植は朔方将、天山縣男左武衛大将軍員外。
日知は成德節度李寶臣に仕え将となり、趙州刺史に至る。
建中三年閏正月.寶臣の死後、自立した惟岳より、日知は州をもって唐朝に降った。
惟岳は兵馬使王武俊に日知を伐たせたが、武俊はかえって恒州を襲撃し惟岳を殺した。
二月.趙州刺史深趙都團練觀察使.賜實封二百戸となる。
幽州朱滔は深州領有を求めていたが叶えられず憤懣を抱いた。武俊もまた日知を軽侮していたので同格[恒冀觀察使]であることが不満だった。
四年十一月武俊は趙州を攻めたが敗北した。
興元元年正月.同州刺史充奉誠軍節度使となったが、武俊に囲まれ赴任できなかった。
その後武俊は唐朝に帰順し、日知は趙州を捨てて檢校兵部尚書晉慈隰節度使に移ることになった。
八月.馬燧は晉慈隰節度使を府庫を付けて日知に譲った。日知は大いに喜んだ。
その後検校左僕射.會稽郡王に至る。
貞元元年十一月.德宗皇帝の京師復帰に随行した。
元年中に卒。贈太子大師。
康日知伝
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新紀のみ記載。
祖先は西域康国の出身で靈州に移る。
祖植は朔方将、天山縣男左武衛大将軍員外。
日知は成德節度李寶臣に仕え将となり、趙州刺史に至る。
建中三年閏正月.寶臣の死後、自立した惟岳より、日知は州をもって唐朝に降った。
惟岳は兵馬使王武俊に日知を伐たせたが、武俊はかえって恒州を襲撃し惟岳を殺した。
二月.趙州刺史深趙都團練觀察使.賜實封二百戸となる。
幽州朱滔は深州領有を求めていたが叶えられず憤懣を抱いた。武俊もまた日知を軽侮していたので同格[恒冀觀察使]であることが不満だった。
四年十一月武俊は趙州を攻めたが敗北した。
興元元年正月.同州刺史充奉誠軍節度使となったが、武俊に囲まれ赴任できなかった。
その後武俊は唐朝に帰順し、日知は趙州を捨てて檢校兵部尚書晉慈隰節度使に移ることになった。
八月.馬燧は晉慈隰節度使を府庫を付けて日知に譲った。日知は大いに喜んだ。
その後検校左僕射.會稽郡王に至る。
貞元元年十一月.德宗皇帝の京師復帰に随行した。
元年中に卒。贈太子大師。