三月庚午,赦田承嗣。
承嗣も相続く敗戦に疲弊し、唐朝もまた財政破綻し継戦能力が乏しくなってきたための妥協である。実質なんの処罰もなく奪った領土はそのままである。この戦役の最大利得者は淄青平盧李正己である、徐鄆曹濮兗五州を取り最大藩鎭となった。他に成德は滄州を取り、淮西李忠臣は豊かな汴州へ移鎭した。承嗣は相衛洺州を得たとは言え、瀛滄德州を失い、軍には大きな損害を受け、以降は意気消沈していった。
三月辛巳,元載有罪伏誅。貶王縉為括州刺史。
代宗は専横する元載に不満を持ち誅殺した。当然与党も弾圧し、無能な縉も左遷された。代宗はふだんは優柔不断で寵臣を盲信し、限界が来ると豹変して徹底排除するという傾向がある。來瑱・李輔國・魚朝恩・元載とつながる。
四月壬午,楊綰・常衮を宰相とする。
本来綰が主役であったが、病身で七月に卒する。そのため衮が専権するが、元載ほどはアクが強くなかった。
五月~十二月、吐蕃が劍南・山西・坊州に来寇する。
大事には至らない。
大暦十三年(丙辰,西暦778年)
------------------------------------------------------------
正月戊辰,回紇寇太原,留後鮑防敗績。
二月代州都督張光晟擊破回紇。
回紇との関係が悪化[回紇が唐朝を軽視して横暴になったため]、
二月己亥,吐蕃寇靈州。四月甲辰,吐蕃寇靈州。七月辛未,吐蕃寇鹽、慶二州。八月吐蕃二萬衆寇銀、麟州。九月庚午,吐蕃涇州。
唐朝と回紇の関係悪化を知り、吐蕃が頻繁に侵攻してくるようになった。崔寧が防備を固めている劍南は避けている。
大暦十四年(丙辰,西暦779年)
------------------------------------------------------------
二月癸未,魏博節度使田承嗣薨。
子は幼く、甥の悅が自立し唐朝はあきらめて追認。
三月丁未,淮西節度使李忠臣は傲慢となり、軍士の怒りをかって族子の希烈逐われた。
忠臣は京師に亡命したが、いままでの功績を評価され宰相格にされた。
希烈は継承を認められたが蔡州刺史とされ、要地の汴穎二州は永平軍李勉の下に移された。
五月辛酉,代宗崩御。
衰退期に優柔不断で失策を重ねた皇帝であるが、郭子儀に野心が無かったことで王朝を維持することができた。各地に有力藩鎭ができ、關内と江淮以外はまともに支配していなかった。
承嗣も相続く敗戦に疲弊し、唐朝もまた財政破綻し継戦能力が乏しくなってきたための妥協である。実質なんの処罰もなく奪った領土はそのままである。この戦役の最大利得者は淄青平盧李正己である、徐鄆曹濮兗五州を取り最大藩鎭となった。他に成德は滄州を取り、淮西李忠臣は豊かな汴州へ移鎭した。承嗣は相衛洺州を得たとは言え、瀛滄德州を失い、軍には大きな損害を受け、以降は意気消沈していった。
三月辛巳,元載有罪伏誅。貶王縉為括州刺史。
代宗は専横する元載に不満を持ち誅殺した。当然与党も弾圧し、無能な縉も左遷された。代宗はふだんは優柔不断で寵臣を盲信し、限界が来ると豹変して徹底排除するという傾向がある。來瑱・李輔國・魚朝恩・元載とつながる。
四月壬午,楊綰・常衮を宰相とする。
本来綰が主役であったが、病身で七月に卒する。そのため衮が専権するが、元載ほどはアクが強くなかった。
五月~十二月、吐蕃が劍南・山西・坊州に来寇する。
大事には至らない。
大暦十三年(丙辰,西暦778年)
------------------------------------------------------------
正月戊辰,回紇寇太原,留後鮑防敗績。
二月代州都督張光晟擊破回紇。
回紇との関係が悪化[回紇が唐朝を軽視して横暴になったため]、
二月己亥,吐蕃寇靈州。四月甲辰,吐蕃寇靈州。七月辛未,吐蕃寇鹽、慶二州。八月吐蕃二萬衆寇銀、麟州。九月庚午,吐蕃涇州。
唐朝と回紇の関係悪化を知り、吐蕃が頻繁に侵攻してくるようになった。崔寧が防備を固めている劍南は避けている。
大暦十四年(丙辰,西暦779年)
------------------------------------------------------------
二月癸未,魏博節度使田承嗣薨。
子は幼く、甥の悅が自立し唐朝はあきらめて追認。
三月丁未,淮西節度使李忠臣は傲慢となり、軍士の怒りをかって族子の希烈逐われた。
忠臣は京師に亡命したが、いままでの功績を評価され宰相格にされた。
希烈は継承を認められたが蔡州刺史とされ、要地の汴穎二州は永平軍李勉の下に移された。
五月辛酉,代宗崩御。
衰退期に優柔不断で失策を重ねた皇帝であるが、郭子儀に野心が無かったことで王朝を維持することができた。各地に有力藩鎭ができ、關内と江淮以外はまともに支配していなかった。