正月壬寅,程元振變服潛行,將圖不軌,長流溱州。尋復令于江陵安置。
処罰されて放歸田里されたはずの元振が京師に戻っていた。再度流されたが、すぐ荊州で安居させることになった。ようは失策は代宗皇帝自身の責任であったわけである。
正月乙卯,立雍王适を太子とした。
正月戊午,郭子儀を僕固懷恩に代えて關内河東副元帥河中節度等使とした。
懷恩麾下の朔方軍の將士は、子儀の旧部下である。懷恩軍の解体を図ったわけである。
正月癸亥,宰相劉晏と李峴を解任し、王縉と杜鴻漸を任命した。
晏は元振派、峴は宦官に憎まれた。凡庸な縉と鴻漸が補充されたが、実権は元載にあった。
二月、子儀至河中。
郭子儀が河中府に入り懷恩軍が分裂し帰属してきた。
二月、懷恩軍で乱が起き、懷恩の子瑒が殺され、懷恩は軍を棄てて靈州に奔った。そして子儀が軍を回収した。
二月、代宗は吐蕃の侵攻時、河南副元帥李光弼が来援しなかったことを猜疑したが、反されるのを懼れて東都留守を加え。その母と弟光進を優遇した。ようは人質である。光弼は徐州で観望していた。
三月己酉,劉晏を河南江淮以來轉運使とした,
解任したものの財政再建ができる者は晏しかいなかった。
処罰されて放歸田里されたはずの元振が京師に戻っていた。再度流されたが、すぐ荊州で安居させることになった。ようは失策は代宗皇帝自身の責任であったわけである。
正月乙卯,立雍王适を太子とした。
正月戊午,郭子儀を僕固懷恩に代えて關内河東副元帥河中節度等使とした。
懷恩麾下の朔方軍の將士は、子儀の旧部下である。懷恩軍の解体を図ったわけである。
正月癸亥,宰相劉晏と李峴を解任し、王縉と杜鴻漸を任命した。
晏は元振派、峴は宦官に憎まれた。凡庸な縉と鴻漸が補充されたが、実権は元載にあった。
二月、子儀至河中。
郭子儀が河中府に入り懷恩軍が分裂し帰属してきた。
二月、懷恩軍で乱が起き、懷恩の子瑒が殺され、懷恩は軍を棄てて靈州に奔った。そして子儀が軍を回収した。
二月、代宗は吐蕃の侵攻時、河南副元帥李光弼が来援しなかったことを猜疑したが、反されるのを懼れて東都留守を加え。その母と弟光進を優遇した。ようは人質である。光弼は徐州で観望していた。
三月己酉,劉晏を河南江淮以來轉運使とした,
解任したものの財政再建ができる者は晏しかいなかった。