唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

寶應二年/廣徳元年 西暦763年 3

2020-04-05 10:00:05 | Weblog
十月戊寅,吐蕃入長安,廣武王承宏を帝とし,改元,置百官
吐蕃は京師を陥し、新帝[邠王守禮の子]を擁立した、もちろん傀儡である。代宗は皇子や兄弟を引率して逃亡したが、ここまでは手が回らなかったようである。

郭子儀は雑軍を集めながら、商州[武關があり鎭兵がいる]へ向かい軍団を編成した。子儀が立つのをみて京師周辺の諸軍が集まってきた。

吐蕃は長期占領は考えず、京師を徹底的に掠奪し撤退する計画であった。

十一月辛丑,削程元振官爵,放歸田里。
官僚達は吐蕃侵攻を招いた失政と、武将の不信をかって来援がない状況をみて、元振を糾弾した。本来失政は代宗に責任があるが、皇帝を糾弾するのは問題が大きいので元振に全責任を押しつけたわけである。代宗はさすがに後ろめたいのか中途半端な処罰をした。

十一月壬寅,郭子儀は吐蕃が撤退した京師に入った。

十二月甲午,代宗は京師に戻った。魚朝恩為天下觀軍容宣慰處置使,總禁兵。
あらたな宦官専政である。代宗は宦官や一部の者に頼り切る優柔不断な人物であった。潰滅した禁軍は神策軍に置き換わり朝恩が指揮をし、郭子儀達と対立していった。

十二月乙未,苗晉卿・裴遵慶罷政事、李峴が宰相となる。
老耄な宰相達がやめて、一応の見識がある峴へ、政治の実権は元載と宦官董秀と事務官卓英倩が握っていた。

吐蕃陷松、維、保三州及雲山新築二城
吐蕃は劍南方面でも勢力を拡張し、文官の節度使高適はなすすべもなかった。