唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天寶十五載/至德元年 その1  西暦756年

2020-08-04 13:15:37 | Weblog
天寶十五載/至德元年 その1  西暦756年
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正月乙卯,東平郡太守嗣昊王祗以兵討安祿山。丙辰,李隋為河南節度使,以討安祿山。
最初の驚愕が過ぎると、各地で唐朝擁護の兵が起こりますが、雑軍です。

正月壬戌,祿山陷恒山郡,執顏杲卿,陷鄴、廣平、钜鹿、趙、上穀、博陵、文安、魏、信都九郡。
蜂起した杲卿軍をプロの軍隊である禄山軍は簡単に鎮圧していきます。

正月癸亥,朔方軍節度副使李光弼為河東節度副大使,以討祿山。
郭子儀は河東節度の回復に李光弼を送り込みました。

正月甲子,南陽郡太守魯炅為南陽節度使,率嶺南、黔中、山南東道兵屯于葉縣。
禄山軍の南下を苦戦しながら炅は食いとめました。

正月乙丑,安慶緒寇潼關,哥舒翰敗之。
潼関は京師防衛の要塞です。怒濤の如く進軍してきた禄山軍ですが、いままで要塞を攻め落とした経験はありません。唐朝軍は野戦では対抗できませんが、防衛戦では負けません。

二月李光弼克常山郡,郭子儀出井陘會光弼,及安祿山將史思明戰,敗之。
光弼は河東を回復し子儀と合同して河北へ進出しました。

三月,顏真卿克魏郡。史思明寇饒陽、平原。
杲卿は滅びましたが、真卿はがんばっています。

五月丁巳,魯炅及安祿山戰于滍水,敗績,奔於南陽。
炅は苦戦し徐々に撤退しながら、それでも禄山軍の南下を遮っています。

この時、安禄山は危機に瀕していました。幽州から一気に南下して東都を陥したところまでは順調だったのですが、河南平定にとまどり[豊かな地域だったので麾下が掠奪に励みすぎたのでしょう]、哥舒翰により潼関の防衛ラインが形成され京師へは侵攻できません。河東節度は朔方軍に奪回され、河北諸郡では杲卿や真卿の蜂起により鎮圧に駆け回り。山東・淮南への南下は炅に阻止されています。すべての方面で手詰まりでこのままでは幽州へ撤退するしかなく自滅でした。禄山は有能な将でしたのでそれが読めてしまうので狼狽しています。そこへ唐朝が自滅行為にでました。