景福二年 西暦893年
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正月,徐彥若罷為鳳翔隴右節度使,李茂貞為山南西道節度使。茂貞不受命。
八月丙申,嗣覃王嗣周為京西路招討使,以討李茂貞。
九月壬午,嗣覃王嗣周及李茂貞戰于興平,敗績。甲申,茂貞犯京師。
時代錯誤でKYな唐朝は、違命した茂貞を左遷し、ついには討伐しようとします。雑軍を集めた禁軍より、茂貞の軍のほうが圧倒的に強いのです。茂貞は禁軍を蹴散らして京師に入り、気に入らない宦官や官僚を殺します。宰相杜譲能も巻き添えで殺されます。
三月辛酉,幽州盧龍軍兵馬留後李匡籌逐其兄匡威,自稱節度留後。
四月丁亥,王鎔殺李匡威。
幽州節度匡威は、河北で唯一李克用軍に対応できました。軟弱な成徳軍王鎔を助けていましたが、不行跡[匡籌の妻などに手を出したそうです]なため逐われ、王鎔のもとに逃れました。そこでも欲を出しすぎ[成徳の実権を奪おうとしたそうです]たため殺されてしまいました。
四月乙亥,王建殺陳敬瑄及劍南西川監軍田令孜。
四月戊子,朱全忠陷徐州,武寧軍節度使時溥死之。
全忠の勢力拡張が実を結び徐泗濠が手に入りました。
七月、幽州の後ろ盾を失った成徳王鎔は克用陣営に入ります。
十月、茂貞と邠寧王行瑜が唐朝を支配し、お手盛りで官爵につきます。茂貞は中書令鳳翔兼山西節度、行瑜は太師兼尚父[郭子儀と同じ]となります。
乾寧元年 西暦894年
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正月乙丑,大赦,改元。
三月甲申,李克用寇邢州,執李存孝殺之。
克用は酒乱で人徳が乏しいのか、次々と配下に背かれます。存孝も手飼いの將なのですが、節度使となると背きました。軍事には能力のある克用はこれを討伐します。このあとも李罕之・孟遷。劉仁恭と取り立てた連中に背かれていきます。
五月丙子,王建陷彭州,威戎軍節度使楊晟死之。
唯一残存していた陳敬瑄勢力を制圧しました。そして東川節度に手をだしていきます。
七月、李茂貞陷閬州。八月,楊守亮伏誅。
復恭・守亮一族は河東克用のもとに逃れようとして途中で華州韓建殺されます。
九月庚申,李克用陷潞州,昭義軍節度使康君立死之。
新唐書の誤記載です。克用が酒乱中に誤って部下の康君立を殺しただけです。
十一月,李克用陷武州。十二月,陷新州。幽州李匡籌奔於滄州,義昌軍節度使盧彥威殺之。
丙辰,李克用陷幽州。
克用が幽州節度使を滅ぼしました。軍才はあった匡威は亡く、無能な匡籌では対抗できなかったようです。留後には劉仁恭が登用されました。克用は河東・幽州・大同・昭義を支配し、河中・義武・成徳を影響下に置く巨大勢力となりました。
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正月,徐彥若罷為鳳翔隴右節度使,李茂貞為山南西道節度使。茂貞不受命。
八月丙申,嗣覃王嗣周為京西路招討使,以討李茂貞。
九月壬午,嗣覃王嗣周及李茂貞戰于興平,敗績。甲申,茂貞犯京師。
時代錯誤でKYな唐朝は、違命した茂貞を左遷し、ついには討伐しようとします。雑軍を集めた禁軍より、茂貞の軍のほうが圧倒的に強いのです。茂貞は禁軍を蹴散らして京師に入り、気に入らない宦官や官僚を殺します。宰相杜譲能も巻き添えで殺されます。
三月辛酉,幽州盧龍軍兵馬留後李匡籌逐其兄匡威,自稱節度留後。
四月丁亥,王鎔殺李匡威。
幽州節度匡威は、河北で唯一李克用軍に対応できました。軟弱な成徳軍王鎔を助けていましたが、不行跡[匡籌の妻などに手を出したそうです]なため逐われ、王鎔のもとに逃れました。そこでも欲を出しすぎ[成徳の実権を奪おうとしたそうです]たため殺されてしまいました。
四月乙亥,王建殺陳敬瑄及劍南西川監軍田令孜。
四月戊子,朱全忠陷徐州,武寧軍節度使時溥死之。
全忠の勢力拡張が実を結び徐泗濠が手に入りました。
七月、幽州の後ろ盾を失った成徳王鎔は克用陣営に入ります。
十月、茂貞と邠寧王行瑜が唐朝を支配し、お手盛りで官爵につきます。茂貞は中書令鳳翔兼山西節度、行瑜は太師兼尚父[郭子儀と同じ]となります。
乾寧元年 西暦894年
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正月乙丑,大赦,改元。
三月甲申,李克用寇邢州,執李存孝殺之。
克用は酒乱で人徳が乏しいのか、次々と配下に背かれます。存孝も手飼いの將なのですが、節度使となると背きました。軍事には能力のある克用はこれを討伐します。このあとも李罕之・孟遷。劉仁恭と取り立てた連中に背かれていきます。
五月丙子,王建陷彭州,威戎軍節度使楊晟死之。
唯一残存していた陳敬瑄勢力を制圧しました。そして東川節度に手をだしていきます。
七月、李茂貞陷閬州。八月,楊守亮伏誅。
復恭・守亮一族は河東克用のもとに逃れようとして途中で華州韓建殺されます。
九月庚申,李克用陷潞州,昭義軍節度使康君立死之。
新唐書の誤記載です。克用が酒乱中に誤って部下の康君立を殺しただけです。
十一月,李克用陷武州。十二月,陷新州。幽州李匡籌奔於滄州,義昌軍節度使盧彥威殺之。
丙辰,李克用陷幽州。
克用が幽州節度使を滅ぼしました。軍才はあった匡威は亡く、無能な匡籌では対抗できなかったようです。留後には劉仁恭が登用されました。克用は河東・幽州・大同・昭義を支配し、河中・義武・成徳を影響下に置く巨大勢力となりました。