唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

乾符五年 西暦878年

2020-08-10 10:00:11 | Weblog
乾符五年 西暦878年
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正月丁酉,王仙芝陷江陵外郛。
江陵は陥落寸前でしたが、山東節度使李福が沙陀騎兵を率いて来援して撃破し救出しました。

正月壬寅,曾元裕及王仙芝戰于申州,敗之。元裕為諸道行營招討草賊使,張自勉副之。
仙芝軍数万人を大破したわけですが、その程度はまたすぐ集まります。功績により元裕が主帥となり、宋威は解任されました。

二月癸酉,雲中守捉使李克用殺大同軍防御使段文楚。己卯,克用寇遮虜軍。
北邊大同で軍糧不足により軍乱、文楚が殺されました。李國昌の子克用が首領として祭り上げられたわけです。克用が殺したわけではありません。

二月,曾元裕は王仙芝を大破し殺しました。
まとまった正規軍が攻撃すれば、賊軍は逃げ散るだけです。仙芝は逃げ遅れたのでしょう。賊軍は黄巣軍の元に合流します。

三月,黃巢陥濮州,寇河南。
黄巣軍は勢力を増して河南で荒れ狂います。

三月、黄巢引兵度江,攻陷虔、吉、饒、信等州。
河南に唐朝軍が集結すると、黄巣は一気に南下し、唐朝の財源である淮南・浙江地方を侵掠します。

五月丁酉,鄭畋、盧攜罷。
愚鈍な僖宗を軽侮している宰相達は持論を声高に主張し、帝前でも罵り合います。さすがにたまりかねて畋と携を罷免し、大人しい豆盧瑑と崔沆を補任しました。

五月丁巳,河東軍乱。六月,以前昭義節度使曹翔為河東節度使。
李克用とその父振武節度使國昌は合同して乱し、それを鎮圧すべき河東軍は弱体の上、軍費が枯渇していました。文官の節度使竇澣では抑えきれず、軍人曹翔を補任します。

六月、荊南節度使高駢,徙為鎮海節度使。
名将西川節度高駢を荊南へ、さらに鎭海へ遷し黄巣を追わせます。

八月,黃巢陷杭州。陷越州,執觀察使崔琢。

八月、鎮海軍將張潾克越州。
十二月甲戌,黃巢陷福州。
高駢の正規軍がくれば、黄巣は浙江を棄てて更に福建へ南下します。

十二月庚辰,河東節度使崔季康、昭義節度使李鈞及李克用戰于洪穀,敗績。
河東曹翔は昭義兵を率い、乱兵を鎮圧しましたが、八月頓死しました。麾下の昭義兵は潰乱してしまいました。後任の季康や鈞は沙陀と戦いましたが敗北し、鈞は戦死しました。

◎.この時期、北邊では李國昌・克用が反乱し、河南以南では黄巣が寇掠をつづけています。唐朝は対処できない上に財源が逼迫し、今まで冷遇されていた節度軍の兵士は横暴になり、文官節度使の命令などを受けようとしません。この時期、河北三鎭は沈滞していて唐朝につけいるような動きはありません。また周辺の蕃族もあまり活発ではありません。