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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天寶十二~十三載  西暦753~54年

2020-08-02 10:00:12 | Weblog
天寶十二載  西暦753年
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二月癸未,制削李林甫官爵;子孫有官者除名,流嶺南及黔中。
楊國忠が権力を握ると林甫と、突厥阿布思が結託し反乱を企んでいたと誣告し林甫派を排除しました。

五月、隴右節度使哥舒翰[突騎施]擊吐蕃,拔洪濟、大漠門等城,悉收九曲。
翰は吐蕃軍を大破し、隴右河西の大半を制圧しました。

九月甲寅,回紇葛邏祿葉護執阿布思。
回紇に指示して阿布思を降し、安禄山の配下に加えました。これにより禄山軍の騎兵は極めて強力になりました。

是歳、安西節度使封常清擊大勃律,至菩薩勞城。
天寶十年とは違い、唐朝軍は各方面で連勝し国土を拡張しました。隴右河西は哥舒翰。安西は封常清、河東幽州平盧は安禄山、朔方は安思順が統率しています。翰と禄山は極めて仲が悪く、國忠は翰と連携しています。

楊貴妃一族は極盛の状態でした。

天寶十三載  西暦754年
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正月己亥,安祿山入朝。
禄山の地位は玄宗の信任は厚かったのですが、國忠には誣告され極めて不安定でした。辺境で功績を上げても張守珪・信安郡王・王忠嗣のように簡単に没落させられてしまうのを見てきた禄山は危機感を抱きました。しかも陰険かつ有能であった林甫と違い、無能な國忠は露骨に敵意を示してくるのです。

正月壬戌、安祿山兼知閒廄群牧總監事。
禄山は數千匹の騎馬を得ました。

四月癸巳,安祿山奏擊奚破之,虜其王李日越。
背後を固める為の方策です。奚を擊ったのではなく配下に加えたのです。李日越はこの後禄山に仕えています。

六月、侍御史劍南留後李宓將兵七萬擊南詔。潰滅。
國忠は対南詔戦で失敗を重ねていました。もちろん老耄した玄宗はなにもしりません。

八月丙戌,以陳希烈為太子太師,罷政事;韋見素為武部尚書、同平章事。
うなづき役の交代です。林甫の同僚を排除し、配下の穏健な見素に代えます。

閏十一月壬寅,貶河東太守韋陟桂嶺尉,御史中丞吉温澧陽長史。
中央における安禄山支持派が追放され、禄山はどんどん追い込まれて行きました。
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