唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

中和三年 西暦883年

2020-08-17 10:18:13 | Weblog
中和三年 西暦883年
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正月,雁門節度使李克用為京城東北面行營都統。
克用が正式に黄巣討伐軍になりました。

正月乙亥,王鐸罷。
突然、田令孜は王鐸の兵権を解任し、功績を奪って宦官達に分与し、自分は十軍兼十二衛觀軍容使となりました。

二月,魏博軍亂,殺其節度使韓簡,其將樂彥禎自稱留後。
河陽・天平への遠征に失敗した簡は、牙軍に見切られて殺されました。

三月。壬申,李克用及黃巢戰於零口,敗之。四月甲辰,又敗之於渭橋。丙午,復京師。
強力な沙陀騎兵集団の攻撃には黄巣軍は耐えられず敗走し、たちまち京師は回復されました。しかし巢軍は潰滅したわけではなく河南道へ走りました。

五月,李克用には河東節度使、朱全忠には宣武軍節度使が与えられました。鄭従讜は宰相に復帰することになりました。

五月蔡州奉國軍節度使秦宗權叛附于黃巢。
宗權は巢軍と戦い、敗れるとすぐ巢軍と合同し周辺を寇掠しはじめました。

七月、宦官楊復光卒于河中。
復光は忠武軍を中心に兵を集め、京師回復に功績がありました。また兄は枢密使復恭であり連携して令孜と対抗していました。復光の死によりその軍[鹿晏弘・王建・韓建等唐末に活躍する武将が多い]は流浪します。また令孜は復恭を左遷し専権を握ります。

八月,黃巢、秦宗權寇陳州。
巢軍は河南で再び得意の流賊となって態勢を立て直し、四方数十州を寇掠しました

十月,李克用陷潞州,刺史李殷銳死之。
河東節度使となった克用は、さっそく隣地の潞州へ勢力拡大を始めます。潞州は本来昭義軍節度使の本拠ですが、自立した孟方立が東部の邢州に移治したことにより、不満をもった連中が克用を呼び込みました。これより昭義軍節度は方立の邢洺磁三州と、克用麾下の澤潞二州に分立します。

十一月壬申,劍南西川行軍司馬高仁厚及阡能戰於邛州,敗之。
仁厚が劍南の民乱を一応鎮圧しました。

十二月,忠武軍將鹿晏弘逐興元節度使牛勖,自稱留後。
流浪する旧復光軍は山西節度を占拠します。