高力士[690-762]
潘州人,本姓馮で嶺南土豪の名門馮盎[耿国公]の末裔と称していたが不明。
載初元年[690]に生まれた。
聖暦元年[698]嶺南討擊使李千里が去勢した蕃族の少年「金剛」と「力士」を宮廷に進献した。
則天皇帝は女性であったので宦官を重要視はせず、力士は宮教博士から內府丞へ進んだが、一時は失態により放逐された。
その後武三思の家に出入りする宦官高延福の養子となり復帰し、武三思に仕えた。
まもなく宮廷にも復帰することができた。
長身で、性格は誠実であり使者として有用で宮闈丞となった。
景龍年間[708-]惰弱な中宗皇帝が韋后・安楽公主に頤使され、弟のこれまた惰弱な相王の子臨淄王隆基[後の平王.玄宗]は皇族が冷遇される事に憤懣を抱き軍人等と謀議していたが、それに親近することになった。
景龍四年/景雲元年[711]隆基は韋后の変に決起して、韋后一族・武氏を誅したが、力士は側近として功績があり、隆基が皇太子となり、皇帝に即位すると朝散大夫內給事に進んだ。