唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 高力士 その5

2024-10-29 10:57:42 | Weblog

天寶十三載頃
玄宗は「いやな雨が続いているな、お前はどう思う」と言うと、力士は「陛下は宰相に賞罰すべて委ねています、そのため陰陽が狂ってしまったのです。」と答えた。玄宗は默然としていた。

天寶十四載末
安禄山が反し、たちまち河北・東都を陥した。

天寶十五載六月
厳命して京師東方の潼関を守っていた哥舒翰を東方に進出させたが、禄山軍の精鋭に撃破され潰滅し、京師に侵攻されることになった。

玄宗は京師を棄て、宰相楊國忠が支配する劍南成都へ逃亡することになった。

狼狽して脱出する玄宗には当然力士が随行していた。

禄山軍侵攻に脅えた州縣官吏は逃亡し、玄宗一行に対する供応はなく、随行する將士は飢え、今までの安楽な生活から一変して窮迫してしまった。憤懣はこの事態を招いた楊國忠にむかい。軍乱となって國忠やその徒党を殺した。

さらに乱軍は玄宗に楊貴妃を殺すように迫った。玄宗は「貴妃は宮中深くにいて事態に責任はない」としたが、力士は「兵達は國忠達を殺しました。その一族の貴妃が生きているなら安心できません、貴妃は無罪ですが今は陛下にも危険が及んでいるのです」と説得した。そして貴妃を殺した。軍士は一応納得して逃亡が続くことになった。

皇太子一行は玄宗達に遅れて逃亡していたが、途中で父老達に關内に留まることを請願され進めなくなった。そこで玄宗は力士を派遣して太子達を朔方軍を頼って靈武郡をめざすよう通告させた。

逃亡の途次、臣下達がおいおい追いついてきた。玄宗は力士に「誰が裏切らずに来るだろうか?」と問うと、力士は「寵遇を受けていた張說の子均や垍は来るでしょう。冷遇されていた房琯はこないでしょう」と言った。しかしまもなく房琯は現れ、均や垍は来なかった。

やがて玄宗は成都につき、力士は近侍していた。政令は自立した皇太子[肅宗]が発し、無気力に成った玄宗はそれを追認した。

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