開元二十三年[735]頃
遊興好きの玄宗はしばしば五鳳樓で宴会を開いたが、見物する民衆の喧噪で音楽が楽しめなかった。そこで警備する金吾兵に統制させたがかえって混乱するだけで効果がなかった。
そこで力士は河南丞嚴安之を勧めた。安之が「騒ぐ者は斬る」と掲示すると、その厳酷な評判を知る民衆はたちまちしずまりかえった。
開元二十五年[737]四月
寵姫である武貴妃は自分の子の立太子を望み、宰相李林甫等と結託し、皇太子瑛と仲の良い兄弟である鄂王瑤、光王琚が謀反していると誣告した。軽率な玄宗はそれにのって三子や姻族を誅してしまった。ところが十二月、武貴妃が卒すると誣告の真実が明らかになり玄宗は悔やんだ。
開元二十六年[738]
無罪な皇太子達を殺してしまい、しかも武貴妃を失い、気力が衰えた玄宗は次ぎの皇太子問題に悩んでいた。宰相李林甫は武貴妃の子「壽王」を推したが、その誣告に乗ぜられたと思う玄宗は素直には聞けず、悩みは深くなるばかりであった。
力士が「何を悩んでおられるのですか」と聞くと、玄宗は「お前には当然わかっているはずだ」と言う、
力士「立太子の件ですね、それなら悩まれずに長幼の順に従えばよいのです、そうすれば誰が異議を唱えましょう」と進言した。長幼の順なら忠王[後の肅宗皇帝]になる。それを聞くと玄宗は「そうだ、そうだ、それが良いな」と言って、林甫の奏を却けて忠王を太子とした。
力士は寵愛した武貴妃を失い元気のない玄宗に、子の壽王妃である楊氏を斡旋した。楊氏が武貴妃に似ていたためという。
その後、林甫は皇太子を廃そうといろいろな疑獄事件を起こしたが、力士は皇太子を守り廃させなかった。
力士は玄宗を《大家(旦那様)》と呼んでいた。
玄宗は力士を通常《将軍》と呼び、時には《我が家の老奴》とも呼び、皇太子は彼を《兄》、他の皇族は《翁》、皇女の婿たちは《爺》と呼んだ。
天寶三年[744]頃
玄宗皇帝は初期の政事への関心をすっかり失い、ただ遊興や楊貴妃との姦淫にふける愚帝となっていきました。そして東都への巡幸も厭うようになりました。宰相李林甫はその状況を察して京師への糧食運送が軌道に乗り、東都への行幸は必要ないと上奏し、玄宗はそれを嘉納しました。力士は「行幸は天下の情勢を視るため必要です」と諫言したが玄宗の不興をかうばかりでした。力士は玄宗の堕落を知り、諫言を控えるようになっていきました。