唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

廣明元年 その2 西暦880年

2020-08-13 10:00:57 | Weblog
廣明元年 その2 西暦880年
-----------------------
七月,幽州李可舉及李國昌・克用戰于藥兒嶺,敗之。
可舉は國昌・克用軍を大破し、二人は達靼へ亡命し、一応沙陀の乱は平定されました。

八月辛卯,昭義軍亂,殺其節度使李鈞。
九月,忠武軍將周岌殺其節度使薛能。牙將秦宗權自稱權知蔡州事。
十一月,河中都虞候王重榮逐其節度使李都。
黄巢は十五萬と号し,曹全晸兵六千を破りました。各地で軍乱が相継ぎ、河南防衛の主将泰寧節度使齊克讓は兵が集まらない上に、軍乱の危険があるため自鎭へ撤退し、黄巣の進路はがら空きになりました。

十一月,護軍中尉田令孜為諸道兵馬都指揮制置招討使,忠武軍監軍楊復光副之。
唐朝は慌てて京師の神策軍を動員しましたが、神策軍は宦官達が収賄して豪商や貴族達[脱税と地位を求めて贈賄して就職]からなる実体のない軍でした。彼らはパレードや祝祭用の部隊で、実際の動員が
かかると、浮浪者や乞食を代役にたてて出頭させました。そのため人数も揃わず、体力もないボロボロの集団でしかありませんでした。長期の平和になれた京師周辺の諸軍も実体はなく、すっかり宦官に食いつぶされていました。

十一月,丁卯,東都留守劉允章叛附于黃巢。
叛附といいますが、防衛する兵力がないので降っただけです。

十一月,壬申,巢陷虢州。田令孜為汝、洛、晉、絳、同、華都統。
令孜は都統と称しますが、出陣せず、張承範、王師會等が少数の雑軍を連れて潼関に向かいます。途中の華州の官吏は既に逃亡していて軍糧すらも満足に支給されません。

十二月壬午,黃巢陷潼關。
本来潼関は堅固な要塞ですので、黃巢のような流賊が攻めても抜くことはできません。しかし長期の平和によりすっかり設備が壊れているうえに、飢えた少数の雑軍が守る状況です。それでも一応は抵抗しましたが突破されました。

十二月、行在咸陽。巢陷京師。辛卯,次鳳翔。
田令孜は僖宗を連れて京師から逃亡し鳳翔に向かいました。そのあと興元から兄陳敬瑄のいる成都に向かいます。宰相も官僚も置き去りにしての逃亡です。

十二月壬辰,巢即皇帝位于含元殿,國號大齊,改元金統。
黄巣は即位し「齊」帝国を建国し、年号を「金統」としました。宰相以下幹部が任命されました。

十二月丙申,河陽節度使諸葛爽叛附于黃巢。
京師付近の諸鎭や一部方鎭[河中や淄青]は黄巣の任命をうけて帰属しました。

十二月庚子,殺廣德公主、豆盧琢、崔沆、劉鄴、于琮、裴諗。
逃げ遅れた皇族・宰相達が殺されました。四品以下の官僚は黄巣に仕えることが許されました。

全国政権としての「唐」は滅亡しました。これ以降は象徴的な存在になります。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 廣明元年 その1 西暦880年 | トップ | 廣明二年/中和元年 その1 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事