唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

廣明元年 その1 西暦880年

2020-08-12 10:00:58 | Weblog
廣明元年 西暦880年
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正月乙卯朔,改元廣明。
ろくなことがない「乾符」を止めました。

三月庚午,以左金吾大將軍陳敬瑄為西川節度使。
僖宗の寵臣宦官田令孜の兄です。宦官に兄がいてもおかしくはありませんが、唐代の宦官には妻子がいるのです。宦官にも何代も続くという名家があります。敬瑄は当然令孜の推薦です。腐敗した神策軍の将楊師立、牛勖、羅元杲等とバクチをして勝ったので大藩である西川節度をもらったという話も、師立[東川]勖[山西]元杲[河陽]と赴任しています。

三月、門下侍郎同平章事鄭從讜同平章事,充河東節度使。
河東節度の混乱が収まらないので宰相從讜が二度目の河東節度を務めることになりました。さすがに名門貴族出身で敏腕の從讜ですので、乱將達を慰撫して治安を回復していきました。と言っても太原付近を抑えたという程度で、到底沙陀討伐ができるというほどではありません。

四月、淮南節度使高駢が諸道行營兵馬都統となり黄巣を討つことに、駢は大軍を将張璘に与えて討伐させました。

四月丁酉,以太僕卿李琢為蔚、朔等州招討都統、行營節度使。
河東節度では沙陀が討てないので琢[これも李晟の孫、聴の子です]を任用しました。

五月、黄巣軍は江西の信州で疫病のため衰微し、張璘に攻められ高駢に降ろうとしました。駢は功をあせり援軍の昭義、感化、義武軍等を還してしまいました。巢は隙をついて攻撃し璘を敗死させました。

六月、李琢は幽州節度節度使李可舉、吐谷渾都督赫連鐸とともに沙陀李克用を破りました。

七月、黄巢自采石渡江,圍天長、六合,兵勢甚盛。
詔河南諸道發兵屯殷水,泰寧節度使齊克讓屯汝州,以備黄巢。
江南で勢力を回復した巢軍は揚子江を渡河して北上してきました。璘を失った淮南高駢は居竦んで見送りました。唐朝は慌てて克讓に命じて河南諸軍を動員させました。順調に諸軍が集まれば巢軍が大軍でも怖くはありませんが、諸軍は五月に高駢に空振りをさせられたばかりです。

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