唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

染坊供人張韶の変

2022-11-30 08:04:27 | Weblog
憲宗皇帝が暗殺された後、凡庸で遊び人の穆宗が継ぎ、5年ほどで頓死しました。その後は長子の敬宗ですが、唐の三愚帝[他は中宗.僖宗]の一人です。ポロ競技とレスリングが大好きで、遊び仲間と夜間に宮中を徘徊して狐狩りをするのが趣味でした。
もちろん政務などには関心が無く、これも凡庸な宰相まかせでした。そういう話しは民間へも漏れ出て嘲笑の対象になっていました。

占い師蘇玄明と染坊の職人張韶は友人でした。
ある日玄明は「俺とおまえが殿上で会食するんだ。皇帝は遊び歩いていて不在だから簡単にできる」と
韶は「おもしろい、やってみるか」と仲間に相談すると、無頼な仲間はすぐ乗ってきました。

長慶4年4月丙申
そこで仲間百餘人と、武器を紫草[染料]を山積みした車に隠し、左銀台門[この門を抜けると皇宮領域に入れる]に至りました。門番は武器を隠した車の重みに気づき誰何すると、韶達は門番を殺して、武装して殿中に侵入しました。

当時敬宗皇帝は清思殿でポロ遊び中でしたが、韶達の歓声を聞き脅え、贔屓している左神策軍に逃げようとしましたが、間を遮断されているため右神策軍へ向かい中尉馬存亮に保護されました。

存亮は直ちに大將康藝全を派遣して掃討させ、「ママが危険だ」と喚く敬宗のためにも兵を派遣しました。

張韶は清思殿に昇り、皇帝の座に座って、蘇玄明と食事をして言いました「あんたの言ったとおりだ。次はどうなるんだ」と、玄明は驚いて「俺の占いはここまでだよ」と。

韶は玄明と狼狽して走り、康藝全・尚國忠に斬られました。
四散して宮中に隠れた餘黨も一掃されました。

韶達を誰何せず通過させた監門の宦官達は死刑になりました。
馬存亮・康藝全達は實封官職が与えられました。

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