玄宗上皇は皇宮外の興慶宮に住み、政務にはまったく関係せず、陳玄禮や高力士、玉真公主・如仙媛・内侍王承恩・魏悅や及梨園の俳優達と宴会を楽しみ、興が起こると長慶樓に出て、民衆の萬歲を受けていた。
また將軍郭英乂や成都在住時代の官員達を召すこともあった。輔國は微賤の出身で政務には通じていても教養が無いため、上皇やその左右からは軽視され憤懣を抱いていた。
輔國は上皇に強いコンプレックスを持つ肅宗に「上皇は外宮にいて外人と交通し、陳玄禮や高力士は陰謀を企んでいます。私にはどうしようもありません」と誣告した。
優柔不断で自信の無い肅宗は「父上をどうこうできないだろう」というばかりだった。
輔國は「上皇が復位を考えられたら大乱がおこります。外部の興慶宮から西內に遷っていただいて、小人達が暗躍しないようにしなければいけません」と提言したが、肅宗は決断できなかった。
上元元年[760]七月
そこで輔國は独断?で麾下の射生五百騎を率いて、武力で玄宗を西內に遷し、側近の玄禮を致仕させ、力士達を配流した。肅宗は承諾しなかったことになっているが、実際は黙認して輔國に責任を押しつけたというのが実情であろう。玄宗はすっかり気落ちして病となった。
上元二年[761]五月
山人李唐が肅宗に玄宗の扱いを諷したが、肅宗は張皇后や輔國を憚って玄宗の見舞いにもいかなかった。
八月
輔國は守兵部尚書となり、宰相朝臣に見送らせた。
さらに宰相を求めた。肅宗は宰相蕭華に諷して阻止させた。輔國は極めて不満であった。
元年[762]
肅宗は重病となり政務をとれなくなった。
元年建卯月
河中・河東で軍乱が起き、節度使李國貞・鄧景山が殺された。輔國が敬遠していた郭子儀が副元帥に登用され鎮圧に向かうことになった。郭子儀は出征にあたりおして病中の肅宗の直命を求め、輔國を牽制した。
元年建辰月
輔國は肅宗に迫って、恨みをもつ宰相蕭華を罷免させ、自党の元載を任用させた。
實封が八百戸に増した。
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