・將梁崇義らは來瑱の讒死を怒り、廣徳元年[763年]襄州に自立した。
唐朝は吐蕃の侵攻・程元振の失態もありそれを認めざるえなかった。
・梁崇義は河北や淄青と連携し反唐朝の姿勢をつづけていたが、勢力的
には孤立し最も弱体であった。
・建中2年[781年]宗皇帝の成徳李惟岳討伐をみた梁崇義は、魏博と
連携して反した。
・隣道の淮西李希烈は虎視眈々と勢力拡大をねらっていたので、ただち
に山東軍を粉砕し、梁崇義は自殺した。希烈は山南東道も併せようとし
たが唐朝はゆるさなかった。そこで希烈は反乱に荷担することになった。
唐朝は吐蕃の侵攻・程元振の失態もありそれを認めざるえなかった。
・梁崇義は河北や淄青と連携し反唐朝の姿勢をつづけていたが、勢力的
には孤立し最も弱体であった。
・建中2年[781年]宗皇帝の成徳李惟岳討伐をみた梁崇義は、魏博と
連携して反した。
・隣道の淮西李希烈は虎視眈々と勢力拡大をねらっていたので、ただち
に山東軍を粉砕し、梁崇義は自殺した。希烈は山南東道も併せようとし
たが唐朝はゆるさなかった。そこで希烈は反乱に荷担することになった。