・田緒は貞元12年[796年]卒した。緒には嘉誠公主が降嫁しており、公主は実子はなかったが緒の末子
季安を養子としていた。そのため継承には問題がなかった。
・田季安は公主に育てられ、能力なく、軍中の人望はないが唐朝には忠順であった。
元和5[810年]年の成徳王承宗の討伐には一応唐朝側として働いたが功績はなかった。
・元和7年[812年]田季安がなくなると、幼子懷諫が嗣いだ。しかし取りまきが専横であったため牙軍は
反発し、一族の田興を擁立しようとした。興は温厚で唐朝に親近感を抱いていた。
・憲宗皇帝は学士李絳の進言を入れ、自己の継承の正当性に不安を感じる田興を一挙に節度使として公認
し、弘正と賜名した。これに感激した弘正は唐朝側に帰属し、多大の恩賞を与えられた軍もそれに従った。
・魏博軍は元和10年[815年]成徳王承宗の討伐に働き、特に元和14年[819年]の
淄青李師道討伐には全軍をあげて出撃した。
・元和15年[820年]成徳軍が唐朝に帰服し、田弘正は成徳節度使に転じ、
魏博には淮西討伐の名将李愬が就任した。
季安を養子としていた。そのため継承には問題がなかった。
・田季安は公主に育てられ、能力なく、軍中の人望はないが唐朝には忠順であった。
元和5[810年]年の成徳王承宗の討伐には一応唐朝側として働いたが功績はなかった。
・元和7年[812年]田季安がなくなると、幼子懷諫が嗣いだ。しかし取りまきが専横であったため牙軍は
反発し、一族の田興を擁立しようとした。興は温厚で唐朝に親近感を抱いていた。
・憲宗皇帝は学士李絳の進言を入れ、自己の継承の正当性に不安を感じる田興を一挙に節度使として公認
し、弘正と賜名した。これに感激した弘正は唐朝側に帰属し、多大の恩賞を与えられた軍もそれに従った。
・魏博軍は元和10年[815年]成徳王承宗の討伐に働き、特に元和14年[819年]の
淄青李師道討伐には全軍をあげて出撃した。
・元和15年[820年]成徳軍が唐朝に帰服し、田弘正は成徳節度使に転じ、
魏博には淮西討伐の名将李愬が就任した。