唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青平盧節度使 その5

2011-12-25 23:25:35 | Weblog
・分割されたあとの淄青節度使はすっかり勢いのない藩鎭となり、軍乱も起こらなかった。
・その後の節度使としては王承元[成徳王承宗の弟]鄭光[宣宗の舅]宋威[王仙芝討伐の主将]など。
・黃巢の乱時、中和2年[881年]淄青でも將王敬武が節度使安師儒を逐って自立した。
・王敬武は龍紀元年[889年]卒し、子の師範が嗣いだ。
・王師範は天復3年[900年]朱全忠[後梁の太祖]が鳳翔李茂貞[昭宗を取り込んでいた]を攻めている空きに背後を
攻めたが成功せず、反って攻撃されて降伏し河陽節度使に移された。
・淄青節度使は朱全忠の支配下となり後梁へ移行した。
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淄青平盧節度使 その4

2011-12-25 23:09:55 | Weblog
・元和年間唐朝の憲宗皇帝は藩鎭圧迫政策を試行錯誤していた。
・その主対象として成徳王承宗・淮西吳元濟が狙われていたが。
淄青李師道もまた危機感をもって動いていた。
・王承宗と李師道は警告として憲宗のブレーンである宰相武元衡を暗殺したが、
かえって憲宗の敵意を強化しただけであった。
・魏博の田弘正が宣武韓弘とともに唐朝に付くと形勢は極めて悪くなった。
・元和12年[817年]淮西吳元濟が李愬の奇襲により壊滅すると、成徳王承宗は
いち早く徳棣二州を献じて唐朝に帰服した。
・優柔不断な李師道が帰服を遅らせたため。元和14年[819年]唐朝は包囲攻撃を開始し。魏博田弘
正を主将とする討伐軍が各地から侵入してきた。
・形勢不利と見た都知兵馬使劉悟は李師道を誅して降伏し、義成軍節度使となった。
・淄青平盧節度使は淄青齊登來・鄆曹濮・沂海兗密の三鎭に分割されることになった。
・新しい淄青平盧節度使には薛平[旧相衛節度使の薛一族]が就任した。
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淄青平盧節度使 その3

2011-12-25 22:15:38 | Weblog
・建中二年[781年]河北の動乱が続いている時期、李正己は死亡し子の納が自立したが唐朝は認めなかった。
・そのため李納は魏博田・恒冀王武俊・幽州朱滔・淮西李希烈とともに反し齊王として自立した。
・徐州にいた李洧[正己從父兄]は唐朝につき、海・沂二州を奪おうとしたが果たせなかった。
・興元元年[784年]形勢不利な唐朝は徐州を除く李納の淄青節度使領有を認めた。鄆・曹・濮・・密・
登・來・齊・沂・淄・兗の十二州である。
・徐州は一応貞元4年まで領州とされていたが、鄆州への移治の承認と引き換えに除外された。
・その後李納の子師古、その弟師道とあいついで継承し元和14年[819年]まで自立が続くことになった。

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淄青平盧節度使 その2

2011-12-25 21:58:34 | Weblog
・淄青平盧節度使侯希逸は事態が安定すると遊猟や造寺にかまけて軍事を省みなくなった。
永泰元年[765年]兵馬使李懷玉[高麗人]はこれを逐い自立した。
弱体の唐朝は認めざるをえず、渤海・新羅との外交権まで与えて慰留した。
・李懷玉は正己の名を与えられ優遇されたが、河北の三鎭とも連携して自立する傾向を強めた。
・大暦10年[775年]魏博田承嗣の反乱の討伐に協力し、その後同じ平盧軍系の汴宋節度使[田神功の後]
の軍乱の鎮定により鄆・曹・濮・徐・兗の五州を管轄下に加えて巨大藩鎭となった。
正己は子の李納を州に置き、鄆州を使府としたが唐朝はそれを認めなかった。
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淄青平盧節度使 その1

2011-12-25 21:40:07 | Weblog
・安史の乱に際して、至徳元年[756年]に州を使府として・密・登・來四州で「密節度使」が置かれた。
初代の節度使は文官の景山である。しかし乱の進行により混乱し、改廃や交替が相次いだ。
・朝鮮に近い安東都護府に置かれていた「平盧軍節度使」は安禄山の反乱に同調せず唐朝方ではあったが、孤立
し、寶應年間[762年]には契丹等の圧迫に耐えきれず全軍が家族とともに侯希逸に率いられて山東半島に移動してきた。
・山東半島には既に平盧軍の兵力が入っており董泰[李忠臣]や淄沂節度使田神功が活躍していた。
・唐朝は侯希逸らを密節度使として遇することとし、田神功の淄沂節度使をも併せて「淄青平盧節度使」となった。
領州は淄・青・登・來・密・齊州である。
・平盧軍は旧高句麗の遺民も含む渤海・朝鮮系の色彩が強い。
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