唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博節度使 その6

2011-12-28 12:18:03 | Weblog
・河北軍閥よりの史憲誠は横海の李同捷の自立討伐においても消極的であった。
しかし子の唐[孝章]は唐に忠誠で父親を諫めたため討伐に協力することとなった。
・牙軍のボスである都知兵馬使亓志紹は成徳の王廷湊と結び、太和二年[828年]
反乱を起こしたが、唐朝李聴が率いる征討軍により鎮定された。
・史憲誠は牙軍の横暴に辟易し、魏博より相衛澶の三州を分離して子の孝章に嗣がせ、
魏博貝三州は李聴に譲り、自分は安全な河中節度使に移ろうとした。
・太和三年[829年]分割を不満とした牙軍は史憲誠を殺し、新節度使李聴を破り、
何進滔を擁立した。李同捷の乱で疲弊した唐朝はそれを追認するしかなかった。
・何進滔はその後、成徳王廷湊とともに反唐朝の姿勢をつづけたが、
牙軍の強い突き上げを受け続け基盤は弱かった。
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魏博節度使 その5

2011-12-28 09:59:04 | Weblog
・元和15年[820年]憲宗皇帝が宦官に殺された後、子の穆宗皇帝は無能であり、登用した宰相達も
いずれも無能であった。しかし憲宗皇帝の威光が残り、長慶元年[821年]4月には幽州劉總も帰国し
全土が唐朝の支配下に戻った。
・ところが7月その幽州で軍乱が起き節度使張弘靖は捕らえられ、成徳軍でも軍乱により田弘正が
殺害された。
・唐朝は魏博節度使李愬が重病であるため。弘正の子原節度使布を急遽魏博節度使に赴任させ
成徳軍を討伐させようとした。
・しかしあいつぐ賞賜により驕兵となった魏博では、若年の田布では統率が困難であり、
長慶二年[822年]討伐軍が途中で自潰してしまう事態がおこり、布は恥じて自殺した。
・実力者である史憲誠は一応軍を統率し、成徳・幽州の反乱軍とも通じるとともに、
唐朝からも節度使に任ぜられるという立場をとった。
・魏博では長く支配した田氏の退陣とともに牙軍の勢力は増大し、節度使はその代表でしかないという
色彩が強くなっていった。
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