寶應元年[762]十二月
史朝義軍は潰滅し、僕固懷恩は副元帥となったが、さっそく宦官達は懷恩に叛意ありと讒言した。
寶應二年[763]正月
一時反した山東節度使來瑱は代宗に赦されて来朝し、兵部尚書同平章事として優遇され、肅宗の山陵使を務めていたが、元振の請託を受けないので誣告され殺された。
疑惑を受けて動揺した僕固懷恩は、安史諸将を徹底して征討せず、幽州・魏博・成徳・相衛など河北を分有させて自分の勢力圏を作ろうとした。
寶應二年六月
同華節度使李懷讓は、元振に誣告され自殺した。
安史の乱が一応収まり、唐朝は「狡兎死して走狗烹らる」のように、実力か大きくなりすぎた功將を整理しようとしていた。朝廷に隷属する宦官達は皇帝[代宗]の意を挺して讒言を繰り返していたわけだが、法治という面では功將達には多くの問題があった。しかし元振達はまだまだ安定していない状況で事を急ぎすぎたようで、諸将は唐朝の姿勢に強い不信を抱いていた。
寶應二年/廣德元年[763]七月
實封二百戶を加えられ、子に五品官を与えられた。
廣德元年九月
吐蕃は唐の辺境防御態勢が崩壊していて、援軍としてきていた回紇が北邊に去ったのを知り、涇州から京師へ侵攻した。
邊將からの急報を元振は重視せず対応を取らなかった。邊將達も朝廷への不信から徹底した防戦をせず、吐蕃軍を通過させた。
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