武威郡姑臧の人、吐谷渾人
宦官となり、右驍衛大將軍に進み、元帥となった雍王适[代宗]に従い転戦し寵遇を受けた。
廣德元年[763]副元帥僕固懷恩軍の監軍となり、懷恩と義兄弟となった。
その後、河東節度使辛雲京と親しくなり、懷恩とは疎遠になった。
辛雲京は懷恩が回紇登里可汗と結託して造反していると奉先に説き、二人して代宗にその反を誣告した。
その後、奉先は懷恩の下に行き歓迎された。懷恩はさらに滞在を求めたが、奉先が帰ろうとしたのでその馬を隠した。奉先は懷恩の意図を誤解して脱走した。懷恩は慌てて追ってつれもどした。
その後また奉先は懷恩が必ず反すると上奏。
これを知った懷恩は「先に郭子儀が疑われて却けられ、また私が誣告されています。陛下は信用されませんよう」と反論したが、追いつめられ反旗を翻すことになってしまった。
その後奉先は軍容使となり畿內兵を管轄した。
永泰元年[765]江国公に進んだ。
鳳翔の監軍となった。
大歷十四年[779]卒した。
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