宦官達の専権に懲りた代宗だが、やはり宦官なしではなにもできなかったが、しかし軍權は宦官に握らせないようにしていった。それをまた覆したのは息子の德宗である。
秀は李輔國が誅されて以降、知枢密として内廷で活躍した。彼については出自等はなにも残っていない。
仲間の宦官駱奉先や劉忠翼、下級吏員だが実務を握る主書卓英倩潛と組んで、収賄に励み巨富を築いた。
樞密とは内廷で詔勅・文書等を取り扱う秘書的な仕事である。当然学問がいる。
一例として、隴右行軍司馬であった陳少游の記事が残っている。
少游は桂管觀察使に任ぜられた。昇任ではあるが桂管は遠隔の炎暑の地であり、少游は不満であった。
そこで少游は宰相元載の子で貪婪な仲武に贈賄するとともに。内廷の実権者董秀の自宅へ赴き、退庁してくるのを待った。
そしていきなり秀に「家中の人数は何人くらいおられますか、月にどれくらい費用がかかりますか?」と問うた。
秀は「出世すると、どんどん人が頼ってきて大変だ。今では月に錢千貫以上で、俸禄では賄えず苦労している」
少游「あなたのような貴人が金のことで苦労されるのは間違っています。いろいろな所から調達されているのでしょうが、私は自分一人で毎年五万貫を提供します。今大半はここにありますが、残りは任地に行ってから送りましょう」
秀は賄賂はせいぜい一万貫程度と思っていたのに、望外の申し出を聞いて歓喜した。
そして友人としての約を結び会食した。
そのとき少游が「せっかくこんなに好意を示していただけるのに、炎暑の桂管に赴任すれば再会できるかわからず残念です」と嘆いた。
秀はあわてて「あなたのような有能な人が、遠隔地に行くことはありません。少し待って下さい、良い所を探します」と言った。
宰相元載と董秀の暗躍により、少游の任地は桂管から、富裕な宣歙観察使に代わった。
少游は多額の贈賄を続け、浙東觀察使・淮南節度使という財地を歴任した。
大暦十二年三月
代宗は宰相元載を誅し、その党であった左衛將軍知内侍省事秀を杖殺した。
宦官は皇帝の奴隷であるため、官員と違い失脚するとほぼ間違い無く殺害される。
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