大曆五年正月
代宗と共謀した宰相元載は、鳳翔澤潞節度使李抱玉を山西澤潞に移鎭させ、朝恩派の陝虢節度使皇甫溫を転任させ朝恩を喜ばせたが、溫は既に裏切っていた。
載はさらに興平、武功、天興、扶風四縣を神策軍の管轄に移し、朝恩を喜ばせた。
二月
麾下の武将劉希暹は状況が悪化していることを知り、朝恩に警告した。
朝恩は不安に思ったが代宗皇帝がしきりに厚意を示すので警戒しなかった。
皇甫溫は入京し、周皓とともに謀議した。そして載は代宗から誅殺の許可を得た。
三月
代宗は宮中で酒宴を開き、朝恩を招いた。載は中書省を固めた。
宴終了後、帰ろうとする朝恩を捕らえて詰問した。朝恩は伏さなかったが、護衛のはずの皓らが殺害した。
朝恩は服罪して觀軍容等使を免ぜられ、内侍監に留まったが自殺したとされた。
葬儀費用として錢六百萬を賜った。
事件に坐していなかった禁軍将劉希暹、王駕鶴に御史中丞が加えられ安撫された。
皇甫溫は陝虢に戻り、周皓も賞され大僕卿にまでなった。
朝恩の党派裴士淹・第五琦等が左遷された。
朝恩亡き後、宰相元載の威權は急拡大したが。大暦十二年代宗は載を誅した。
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