唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦十~十一年 西暦775~6年

2020-04-15 10:00:51 | Weblog
八月、田承嗣遣使奉表,請束身歸朝。
単なる時間稼ぎであった。入朝などする意志はなかった。一方で磁州を回復しようとした。

九月壬子,吐蕃寇臨涇,癸丑,寇隴州及普潤,鳳翔節度使李抱玉破吐蕃于義寧。
唐朝は吐蕃を警戒して、対承嗣対策には主力を送ることは出来ず。統制のとれず、経費だけがかかる藩鎭軍に任せるしかなかった。

十月、成德李寶臣と昭義留後李承昭は清水に承嗣軍を大破した。

十一月、嶺南節度使路嗣恭が哥舒晃を征討し廣州を回復した。

大暦十一年 西暦776年
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正月辛亥,西川節度使崔寧破吐蕃四節度及突厥、吐谷渾、氐、羌群蠻衆二十餘萬。

二月庚辰,田承嗣復請入朝。赦承嗣罪,復其官爵。
承嗣も若干弱気になり、妥協点を探ろうとしていた。

五月、汴宋留後田神玉卒。都虞候李靈曜自立、結田承嗣。
ところが折り悪く神玉が卒し、靈曜が自立し征討軍の背後が崩れた。

六月戊午,以靈曜為汴宋留後,遣使宣慰。
代宗のいつもの姑息な対策であるが、靈曜は強気で拒否した。

七月、田承嗣遣兵寇滑州,敗永平節度李勉。
承嗣は攻勢に出て、文官出の永平李勉を破った。

八月甲申,淮西李忠臣、永平李勉、河陽馬燧、淮南少游、淄青李正己討靈曜。
魏博征討どころではなくなってしまったわけである。当然承嗣の入朝などあり得ない状況になった。

九月乙丑,李忠臣、馬燧軍が靈曜軍に鄭州で敗れた。

九月戊辰,淄青李正己は鄆、濮二州を陥した。
どさくさに紛れて豊かな鄆、濮二州を得たわけである。

十月、李忠臣、馬燧、陳少游は靈曜を破り、汴州城を囲んだ。
田承嗣は悅を派遣史、永平、淄青を匡城に破り汴州に来援させた。
丙午,忠臣は悅軍を大破し、悦は魏博に遁走し、汴州城は陥落し、靈耀は誅された。
田悦はこの後も戦闘が下手でよく大敗する将である。唐朝は汴宋を平定することがで来たが、魏博戦線の崩壊という大きな代償を払う。淮西李忠臣や淄青李正己は利を得てあまり動かなくなった。

大暦九~十年 西暦774~5年

2020-04-14 10:00:18 | Weblog
九月、幽州節度使朱泚入朝,庚子,至京師,対吐蕃防衛に就く。
泚は幽州の精兵五千を引き連れ入京、河北の藩鎭の入朝は最初であり代宗は感激して優遇した


[關東の諸鎭情勢]
・幽州 朱泚の入朝後は滔が代理、親唐朝姿勢だが遠隔地。北邊防禦の常に強い軍事態勢をしいていた。また蕃夷・朝鮮との貿易が盛んでありそれなりに豊かであった。
・成德 李寶臣が旧同僚とともに経営。蕃夷を中心とした騎兵が充実し、財政的にも安定していた。
・魏博 田承嗣は安史の仲間には基盤が弱く、そのため厳しい徴兵を行い、強力な歩兵中心の牙軍を形成した。そのため財政的には苦しかった。
・相衛 薛蕚が継承したが統制はとれず不安定であった。
・淄青 李正己の統治が徹底してきて安定していた。
・汴宋 田神功が亡くなり、弟神玉が留後として継承したが不安定であった。
・澤潞 李抱眞が留後として弓隊を中心に軍備を充実させていた。
・河東 薛兼訓が統治していたが顕著な情報は無い。

大暦十年 西暦775年 1
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正月丁酉,昭義兵馬使裴志清逐留後薛萼,帥其衆歸承嗣。
財政難で兵力過剰な魏博田承嗣は相衛節度を併合しようとして、旧知の志清を唆して反乱を起こさせた。無能な蕚は鎭を棄てて遁走した。
たちまち承嗣は相衛磁洺四州を取った。

正月乙卯,西川節度使崔寧奏破吐蕃數萬于西山,斬首萬級,捕虜數千人。
崔寧が有能な所をみせたわけである。実際の所は不明だが、劍南への吐蕃侵攻が阻止されるようになったのは確かである。

二月、河陽三城で軍乱、逐使常休明
休明が軍士に配慮しなかったことから起こった軍乱で、監軍が慰撫した。当然承嗣の指嗾はある。河陽三城は小鎭であるが黄河の渡河点に置かれた要地である。

三月甲午朔,陝州軍亂,奔觀察使李國清。
國清は対処できず、ひたすら將士に媚びて逃亡した。ところがちょうど淮西節度使李忠臣が兵を率いて入朝の途次にあり、その威力を懼れて將士は乱を収めた。

四月乙未,河東、成德、幽州、淄青、淮西、永平、汴宋、河陽、澤潞諸道發兵、魏博を討つ。
唐朝の態勢はガタガタだったが、撤兵せよとの命令を承嗣が無視したことから、やむをえず討伐することになった。魏博周囲の諸鎭はこぞって討伐に参加することになった。

五月乙未,承嗣將霍榮國以磁州降。
丁未,李正己攻德州,拔之。
李忠臣統永平、河陽、懷、澤步騎四萬進攻衛州。
承嗣は孤立するとは思っておらず、周囲全面からの攻撃には麾下が動揺した。取ったばかりの磁州、淄青に近い德州が失われ、淮西から李忠臣が北上してきた。

六月辛未,田承嗣遣其將裴志清等攻冀州,志清以其衆降李寶臣。
甲戌,承嗣自將圍冀州,敗北して而遁。
北方成德方面でも魏博軍は不振だった。

大暦六~八年 西暦771~73年

2020-04-13 10:02:59 | Weblog
三月,王翃敗梁崇牽,克容州。
安史の乱時より嶺南蠻酋梁崇牽は平南十道大都統と称して、西原蠻と連携して容州を占拠していた。そのため容州都團練観察使は藤/梧州に僑治していた。新任の王翃は嶺南節度使李勉と協調してこれを捕らえ、他の諸賊も平定した。

この歳は吐蕃の入寇はなかった。

大暦七年 西暦772年
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正月甲辰,回紇使者擅出鴻臚寺,掠人子女。
七月癸巳,回紇又擅出鴻臚寺,逐長安令邵說至含光門街,奪其馬。
唐朝を支援した功績で増長した回紇の横暴が目立つようになり、両国の関係は冷却化していった。

七月、盧龍節度使朱希彩が殺された。
希彩は横暴になって部下に殺され、朱泚と滔兄弟は実力を持って継承した。

大暦八年 西暦773年
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正月、昭義節度使薛嵩薨。
安史の残党嵩、元々対高句麗戦で活躍した將軍薛仁貴の孫であり、安史の乱には従ったが他の将と違って名門の出である。継承すべき子の平は12歳でしかなく、叔父崿に譲って鄉里にもどった。唐朝は追認するしかなかった。

二月壬申,永平軍滑亳節度使令狐彰薨。
これも安史の残党。軍を整備し良政をしいていた。他鎭とは違い唐朝に貢賦を収め、対吐蕃防衛兵も派遣していた。病となり幕僚の勧めを受けて子孫に継承させず、宰相級の高官の後任を求めた。唐朝は嶺南節度として功績を上げた工部尚書李勉を派遣した。薨後、牙軍は子の建に継承を求めたが拒否され、勉の赴任が成功した。建等は当然京師で優遇された。

五月乙酉,貶徐浩明州別駕、薛邕歙州刺史、杜濟杭州刺史、于邵桂州長史。
代宗は元載の勢力を削減しようとしその与党を左遷した。

七月辛丑,回紇辭歸,載賜遣及馬價,共用車千餘乘。
回紇は貪欲に利益を要求し、唐朝は財政難に苦しみながらも応じていた。

八月己未,吐蕃六萬騎寇靈武,踐秋稼而去。
この歳、十月にかけて吐蕃と郭子儀軍は靈武で激戦し勝敗があった。ただ京師近郊まで戦闘が及ぶことはなかった。

八月辛未,幽州朱泚は兵を対吐蕃に派遣することを提案し、唐朝にすり寄る姿勢をみせてきた。当然代宗は喜んだ。

九月壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。
十月己丑,江西觀察使路嗣恭兼嶺南節度使,討哥舒晃。
唐朝は嶺南貿易により大きな利益を上げていたため、早期の回復をはかった。

大暦四~五年 西暦769~70年

2020-04-12 10:01:47 | Weblog
正月丙子,郭子儀入朝,魚朝恩邀之游章敬寺。
子儀が河中より入朝し、朝恩と会した。宰相元載は両者が結ぶのを警戒し、朝恩が子儀を暗殺しようとしているという噂を流し、対立を煽ろうとしたが、子儀は周囲が止めるのを振り切り近臣数人のみで朝恩を訪問した。朝恩はその信頼に感激した。

二月乙巳,以楊子琳為峽州團練使。
成都より奔った子琳は瀘州に拠り、蘷州・涪州を取った。荊南節度衞伯玉はこれを慰撫した。

五月辛卯,僕固懷恩の娘を崇徽公主として,回紇可汗に嫁がせた。
代宗は懷恩が反意がなかったのにも関わらず、追いつめて反させたことを自覚していて、娘を遇することで少しは償おうとした。懷恩の家は鉄勒僕固部の酋長であるので、回紇の可汗家とは釣り合っている。

九月吐蕃寇靈州;十月常謙光奏吐蕃寇鳴沙,渾瑊將銳兵五千救靈州,子儀自將進慶州
この歳の吐蕃侵攻は辺境で撃退することができた。

十一月壬申,宰相杜鴻漸が卒し、老耄の裴冕を後任にしたが、十二月冕も亡くなった。
専権する元載が都合の良い同僚を選ぼうとしたわけである。

大暦五年 西暦770年
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正月辛卯,鳳翔李抱玉を山西節度使,魚朝恩派陝虢皇甫温を鳳翔節度使とした。
宰相元載と宦官魚朝恩の対立が深刻化し、代宗は元載を支持し朝恩を除こうとした。そのため表面上朝恩派の溫[内実は載に裏切っていた]を転任させ、神策軍に数県を領有させて朝恩を油断させた。

三月癸酉,寒食,上置酒宴貴近于禁中,載守中書省。宴罷,殺朝恩,外無知者。
代宗は朝恩を宴会に呼び寄せ、元載に護衛を遮断させて殺した。そして罪を認めて自殺したと公示した。ただこれより載がより専権を振るうようになり、代宗は載を排除しようと動き出す。

四月乙巳,以涇原節度使馬璘兼鄭穎節度使。
涇原節度へ転出させられた馬璘が、その貧地[原州は実質吐蕃所有地]では軍を養えないと訴えてきた。そのため比較的豊かな鄭穎二州を管轄させて補いとした。

大暦三年 西暦768年

2020-04-11 10:03:38 | Weblog
六月壬寅,幽州兵馬使朱希彩殺其節度使李懷仙,自稱留後。
李懷仙は節度使となった後、傲慢になり主君面をした。外夷と常に対峙する幽州軍では、上下関係より軍事能力が重視されている。希彩は同姓の泚や滔兄弟と共謀して乱した。唐朝は一旦宰相王縉を送り込んだが、統制できずとみて希彩の継承を認めた。

七月壬申,濾州刺史楊子琳反,陷成都。
四月、西川節度崔寧は入朝して、朝廷各所に贈賄し地位を固めていた。しかし同じく劍南の武将であった子琳は不満で、留守に乗じて成都を奪った。慌てた唐朝は寧を帰任させることにした。寧の弟寬はなかなか勝てなかったが、寧の妾任氏が募兵して攻撃し子琳を逐った。子琳は東川に奔った。

八月己酉,吐蕃寇靈州。丁卯,寇邠州,京師戒嚴。
吐蕃が大軍をもって京師近郊まで来襲し激戦になったがなんとか撃退することができた。

八月庚午,河東節度使辛雲京薨,以王縉領河東節度使,餘如故。
半分自立していた雲京が卒し、再び宰相王縉が派遣された。今回はなんとか牙軍を抑えて支配権を回収することができた。

十二月辛酉,涇原兵馬使王童之謀反,伏誅。
吐蕃の来寇に際しては邠寧節度使[節度使馬璘]が最前線となり、河中より郭子儀軍が来援するという形をとっていた。ところが来援が遅れると京師が危機になるのを懼れた朝廷は、馬璘を邠州から涇州に進出させ、子儀軍主力を邠州に置くようにした。璘軍は元は遙か安西四鎭より派遣された軍で、各地を転々としてやっと数年邠州に落ち着いた所[当時の軍は家族も帯同している]であった。さらに危険で貧寒な涇州への移鎭は耐えがたいものであったので、牙軍は激しく動揺した。そこで璘は主力兵だけを率いて涇州へ急行し、留後段秀實が不満派を慰撫してなんとか収めた。

十二月、平盧将許杲は勝手に濠州に入り、淮南狙い、漕運を妨げようとしていた。淮南節度使崔圓は歴戦の将張萬福を派遣し追いはらった。さらに和楚州を荒らした杲軍を萬福は撃破鎮定した。

大暦二年 西暦767年

2020-04-10 10:00:40 | Weblog
正月丁巳,密詔郭子儀討周智光。甲子,華州牙將姚懷、李延俊殺智光,以其首來獻。
さすがに弱体の唐朝もがまんできず、しかし禁軍は弱いため河中郭子儀に征討を依頼した。智光の増長に辟易していた麾下の将達は、子儀が征討に来ると知って、あっさり智光を裏切り殺害して降った。

二月丙戌,郭子儀入朝。上命元載、王縉、魚朝恩等互置酒于其第
子儀の勢力は巨大になり、代宗はひたすらご機嫌取りをした。
この時点で子儀が簒奪を図れば阻止する者はいなかったであろう、李光弼・王思禮・來瑱・李輔國は死に、僕固懷恩は去り、河北の諸鎭は自分の勢力固めに専心しており、唯一力を持つ旧平盧軍系[李正己.田神功.李忠臣]はまだ小者で子儀にすり寄り、あとの諸将は子儀の手下である。劍南に逃避することも崔寧のためにできなかった。ただ子儀には皇帝となる野望はなかったようである。京師に常駐する危険[吐蕃と魚朝恩、そして代宗]は避けて、安全な河中府に大兵を擁して睨みをきかす策であった。当然子儀の身になにかあれば、河中軍が黙っていないという形である。

六月甲戌,杜鴻漸來自成都,廣為貢獻,薦崔寧;上亦務姑息,鴻漸復相。
七月丙寅,以崔寧為西川節度使,杜濟為東川節度使。
鴻漸は莫大な劍南からの貢物を持参しあちこちに撒き、崔寧を後任にと説いた。この時点の代宗には体面を保つ以外になにができただろう、せめてもの処置で劍南を東西に分割したのがせいいっぱいだった。

七月丁卯,魚朝恩奏以先所賜莊為章敬寺,費逾萬億。
代宗以下、朝恩、宰相元載、王縉、杜鴻漸などみんな仏教に傾倒し、貧困な財政を傾けて仏事に励んだ。現状に怯えて仏にすがったわけである。

九月吐蕃衆數萬圍靈州,游騎至潘原、宜祿
京師近郊まで侵入があったので、子儀が河中より奉天へ移動して備えた。この歳の侵攻は大事にはいたらなかった。

永泰二年/大暦元年 西暦766年

2020-04-09 10:00:07 | Weblog
正月丙戌,劉晏と第五琦分理天下財賦。
安史の乱以来財政を担当してきた二人に分権して、財政再建に本腰をいれることらなった。

二月乙未,刑部尚書顏真卿貶峽州別駕。
宰相元載が專權し、諌官の上奏を遮ろうとし、批判した真卿を追放した。

二月壬子,杜鴻漸が山西劍南東西川副元帥として劍南を平定することになった。
実戦部隊は山西節度使張獻誠であり、叛将柏茂琳や崔寧は刺史として鎭撫することになった。
三月癸未,獻誠與旰戰于梓州,獻誠軍敗,僅以身免,旌節皆為旰所奪。
ところが唐朝軍はもろくも崔寧軍に敗北して、平定計画は潰れた。
勇略はないが老獪な鴻漸は方針を転換し、ひたすら寧を慰撫し「悪いようにはしないから、一応頭を下げてくれ」と頼んだ。寧も政治性のある将であったので、鴻漸や代宗に莫大な贈賄をした。
八月、鴻漸は喜んで一応節度使として成都に入り、寧をすこしも責めず、軍政をすべて任せた。そして「まもなく帰京するので、後任にはあなたを推薦する、他の将達もそれなりに遇するので安心して欲しい」ということで決着させた。
当時の弱体な唐朝の力ではそうするしかなく、賢明な方法であった。

八月甲辰,以魚朝恩行内侍監、判國子監事。
宦官朝恩は増長し、しかも本人は学があるつもりであったので、國子監[最高学府]の長となった。文官達の憤慨をかった。

十一月甲子,赦,改元。
「永泰」も吐蕃の入寇など不吉であったので、「大暦」に改元した。

十二月癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。
勇敢だが粗暴で激発しやすい軍人である華州刺史智光は、あちこちで紛争を起こしたが、宦官魚朝恩の部下でもあるので唐朝はひたすら宥めていた。それに増長した智光が、元同僚である陝州皇甫温の麾下を殺し、場合によっては京師を襲撃すると唐朝を恫喝した。

永泰元年 西暦765年

2020-04-08 10:00:02 | Weblog
正月癸卯朔,改元,赦天下。
京師が陥落するという縁起の悪い「廣徳」をやめて「永泰」へ。

正月戊申,陳鄭澤潞節度使李抱玉兼鳳翔隴右節度使
抱玉は安西節度出身の胡人[旧姓は安]であり、漢人のように表裏がなく比較的信頼されていた。京師の西の要地鳳翔に屯させて吐蕃防衛にあたらせた。本来の澤潞[河北からの侵攻路を抑える要地]には、その従弟抱眞が留後となった。抱眞は弓兵を中心とした軍団を編成し、数年のうちに河北勢力が手を出せないようにした。

永泰元年二月戊寅,黨項寇富平,焚定陵殿。
吐蕃・回紇・黨項羌、渾、奴剌と侵攻しほうだいである。唐朝の諸陵も荒らしまくられた。

四月辛卯,劍南節度使嚴武薨。
五月癸丑,以右僕射郭英乂為劍南節度使。
吐蕃の劍南侵攻を阻止していた武[専権傲岸で知られていたが]が亡くなり、唐朝はあわてて猛将郭英乂を送り込んだ。

七月淄青平盧節度使侯希逸,好游畋,營塔寺。将李懷玉[正己]に逐われる。
軍乱による節度使自立の始まり[自薦立の始まりはもっと以前だが]、唐朝は自立を認めた。

九月、僕固懷恩は回紇、吐蕃、吐谷渾、黨項、奴剌數十萬を動員して侵攻してきた。代宗は大規模な仏事を繰り返し恐怖を紛らわせているだけであった。

郭子儀の動員により關内諸将は京師周辺に集結し、吐蕃等と激戦を重ねたが不利であった。

十月、吐蕃・回紇は合同して涇陽を囲み、郭子儀軍と対峙した。到底蕃軍には敵わない子儀は、安史の乱以来の旧知のいる回紇を懐柔した。平原の民は国ではなく、人と人の関係で動き、本来吐蕃とは仲が悪い回紇は子儀の勧誘に応じた。

十月癸酉,戰吐蕃于靈台西原,大破之,殺吐蕃萬計,得所掠士女四千人。
回紇が裏切ったことを知った吐蕃は退却し、子儀等は追撃して撃破した。これにより侵攻は終わった。

閏月辛亥,劍南将崔旴[寧]反,寇成都,節度使郭英乂死。
嚴武の後任となった英乂は、傲岸で従わない武の愛将寧を討とうとした。しかし山岳戦に習熟した寧軍に敗れて殺された。劍南各地では諸将が蜂起し大混乱となった。

廣徳二年 西暦764年 2

2020-04-07 10:00:20 | Weblog
七月庚子,初稅青苗。
財政困難のため、晏は収穫を待たず、耕地面積に応じて税を課した。

七月己酉,李光弼薨。
八月丙寅,王縉為侍中都統河南淮南山南東道節度行營事。
河南副元帥光弼が卒し、唐朝は宰相王縉を派遣して軍權を回収した。

八月癸巳,吐蕃寇邠州,邠寧節度使白孝德敗之於宜祿。
十月丙寅,吐蕃寇邠州。丁卯,寇奉天,京師戒嚴。辛未,郭晞破吐蕃戰於邠西。
十一月乙未,吐蕃軍潰,京師解嚴。
僕固懷恩は回紇・吐蕃と共に侵攻し、郭子儀軍との間で京師近郊で激戦が行われた。今回はなんとか撃退することができた。「軍潰」とは単なる形容詞で戦略的撤退をしていっただけである。

九月己未,劍南節度使嚴武及吐蕃戰於當狗城,敗之。庚午,克吐蕃鹽川城。
劍南へ派遣された嚴武も吐蕃と激戦し、なんとか持ちこたえていた。

十一月、河西節度使楊志烈及僕固懷恩戰於靈州,敗績。
河西軍が懷恩の本拠靈州を攻撃したため、懷恩は京師近郊より慌てて戻り撃破した。
河西軍は潰滅し京師防衛の犠牲となったわけであり、志烈は軍士に怨まれ殺された。

十一月庚申,山南西道節度使張獻誠擒高玉,獻之,餘盜皆平。
京師南方の山岳「南山」に唐朝の衰退に乗じて群盗が巣くっていたものを討伐した。

十二月乙丑,加郭子儀尚書令。
代宗は盛んに子儀の機嫌取りをした。「太尉」「尚書令」と、唐初の秦王世民[太宗]待遇である。いろいろな意味で危険な京師に常駐させようという策である。しかし賢明な子儀は全て辞退して河中に拠って、宦官勢力と対峙していた。

廣徳二年 西暦764年 1

2020-04-06 10:00:29 | Weblog
正月壬寅,程元振變服潛行,將圖不軌,長流溱州。尋復令于江陵安置。
処罰されて放歸田里されたはずの元振が京師に戻っていた。再度流されたが、すぐ荊州で安居させることになった。ようは失策は代宗皇帝自身の責任であったわけである。

正月乙卯,立雍王适を太子とした。

正月戊午,郭子儀を僕固懷恩に代えて關内河東副元帥河中節度等使とした。
懷恩麾下の朔方軍の將士は、子儀の旧部下である。懷恩軍の解体を図ったわけである。

正月癸亥,宰相劉晏と李峴を解任し、王縉と杜鴻漸を任命した。
晏は元振派、峴は宦官に憎まれた。凡庸な縉と鴻漸が補充されたが、実権は元載にあった。

二月、子儀至河中。
郭子儀が河中府に入り懷恩軍が分裂し帰属してきた。

二月、懷恩軍で乱が起き、懷恩の子瑒が殺され、懷恩は軍を棄てて靈州に奔った。そして子儀が軍を回収した。

二月、代宗は吐蕃の侵攻時、河南副元帥李光弼が来援しなかったことを猜疑したが、反されるのを懼れて東都留守を加え。その母と弟光進を優遇した。ようは人質である。光弼は徐州で観望していた。

三月己酉,劉晏を河南江淮以來轉運使とした,
解任したものの財政再建ができる者は晏しかいなかった。

寶應二年/廣徳元年 西暦763年 3

2020-04-05 10:00:05 | Weblog
十月戊寅,吐蕃入長安,廣武王承宏を帝とし,改元,置百官
吐蕃は京師を陥し、新帝[邠王守禮の子]を擁立した、もちろん傀儡である。代宗は皇子や兄弟を引率して逃亡したが、ここまでは手が回らなかったようである。

郭子儀は雑軍を集めながら、商州[武關があり鎭兵がいる]へ向かい軍団を編成した。子儀が立つのをみて京師周辺の諸軍が集まってきた。

吐蕃は長期占領は考えず、京師を徹底的に掠奪し撤退する計画であった。

十一月辛丑,削程元振官爵,放歸田里。
官僚達は吐蕃侵攻を招いた失政と、武将の不信をかって来援がない状況をみて、元振を糾弾した。本来失政は代宗に責任があるが、皇帝を糾弾するのは問題が大きいので元振に全責任を押しつけたわけである。代宗はさすがに後ろめたいのか中途半端な処罰をした。

十一月壬寅,郭子儀は吐蕃が撤退した京師に入った。

十二月甲午,代宗は京師に戻った。魚朝恩為天下觀軍容宣慰處置使,總禁兵。
あらたな宦官専政である。代宗は宦官や一部の者に頼り切る優柔不断な人物であった。潰滅した禁軍は神策軍に置き換わり朝恩が指揮をし、郭子儀達と対立していった。

十二月乙未,苗晉卿・裴遵慶罷政事、李峴が宰相となる。
老耄な宰相達がやめて、一応の見識がある峴へ、政治の実権は元載と宦官董秀と事務官卓英倩が握っていた。

吐蕃陷松、維、保三州及雲山新築二城
吐蕃は劍南方面でも勢力を拡張し、文官の節度使高適はなすすべもなかった。

寶應二年/廣徳元年 西暦763年 2

2020-04-04 10:02:52 | Weblog
七月壬子,大赦,改元「廣德」
恒例の即位翌年の改元であるが、安史の乱終結の記念でもあった。

七月吐蕃陷蘭廓河鄯洮岷秦成渭等州,盡取河西隴右之地。。
吐蕃は唐朝が安史の乱に軍を転用した隙をついて河西隴右諸州を占有していった。

八月癸未,宦官駱奉仙至長安,奏僕固懷恩謀反
河東節度使辛雲京は懷恩と不仲であり、その不徹底な河北討伐に反対していた。また「狡兎死して走狗烹らる」を地で行く代宗や宦官勢力と結び、功績の大きい懷恩を除こうとした。
反意の無い懷恩はあわてて上書して弁解した。

九月壬戌,上遣裴遵慶詣懷恩諭旨,且察其去就。懷恩見遵慶,抱其足號泣拆冤。
代宗は宰相裴遵慶を派遣して懷恩の意を糺した。懷恩は必死で弁解したが入朝を促されるだけであった。懷恩は従おうとしたが來瑱の例をみた配下諸将は入朝しても宦官程元振などが讒言しているので見通しは暗いと止めた。

十月吐蕃寇涇州,刺史高暉以城降之,遂為之鄉導,引吐蕃深入;
辛未,寇奉天、武功,京師震駭。
吐蕃の入寇を失策を懼れて程元振は隠していたが、ついに京師近郊まで侵攻が及んだ。

十月、雍王适を關内元帥とし、郭子儀を副元帥として咸陽に防がせた。
代宗・程元振は、郭子儀を解任し冷遇していたが、吐蕃の侵攻に対処することができず、急遽登用した。しかし子儀は猜疑を避ける為に麾下の兵を解散していたために持兵がなかった。子儀は元振に邪魔されて謁見すらできなかった。

十月丙子,出幸陝州,官吏藏竄,六軍逃散。
代宗・元振は陝州へ逃亡し、朝廷・禁軍は崩壊した。

十月丁丑,車駕至華州,會魚朝恩將神策軍自陝來迎,上乃幸朝恩營。
代宗は華州まで逃げ、宦官魚朝恩の率いる神策軍に迎えられた。禁軍は崩壊したため、以降神策軍[本来は隴右節度使の一軍であったが、安史の乱に陝州に移駐していた]が禁軍となった。元振の権威は失墜したが、新たな宦官朝恩が現れ、代宗はこれに縋るわけである。
代宗の無能さに腹を立てた叔父豐王珙は弾劾したがかえって殺された。

寶應二年/廣徳元年 西暦763年 1

2020-04-03 10:06:43 | Weblog
正月癸未,劉晏が宰相となる。
有能な財政家の晏を宰相とした。

正月甲申,史朝義自殺,將李懷仙・田承嗣以魏州降。
敗戦が続き、次々と部下が唐朝に降り、河北に追いつめられた朝義は、頼りとする承嗣に裏切られ、本拠地の幽州に奔った。しかし幽州を守る懷仙にも裏切られ自殺した。
安史の大乱が一応集結したわけである。

正月壬寅,山陵使、山南東道節度使來瑱有罪,伏誅。
代宗と宦官程元振は瑱を優遇するとみせかけて、讒言を加えて殺害した。これを見た諸将は唐朝を信用しなくなった。

閏正月癸亥,史朝義將薛嵩を相衛邢洺貝磁節度使,田承嗣を魏博德滄瀛五州都防御使,李懷仙を幽州盧龍節度使。
副元帥僕固懷恩は徹底した討伐を行わず、河北を史朝義の旧将達に分与して早期に安定化しようとした。これは懷恩が來瑱の処遇をみて代宗・程元振を信用せず、朝義旧将を統御して保身を図ろうとしたこともある。この時点ならば朝義旧将は懷仙を除き弱体で、河北回復は可能だったと思われるが、唐朝も継戦の余力なく追認するしかなかった。
援軍である回紇軍は所々を徹底的に掠奪しながら引き上げていった。

三月甲辰,山南東道兵馬使梁崇義自立する。
瑱の殺害により山東軍は混乱し、瑱の崇拝者崇義が勝利して自立した。唐朝を信用しない諸将はこれを討伐するものがなく、自立を認めるしかなかった。

六月,同華節度使李懷讓自殺。
これも程元振の讒言を懼れてのことである。

唐朝は武人達の信用を完全に失っており、外征軍はまだ河北・淮南より帰還せず、京師關内は守るもの無く吐蕃の侵攻から無防備の状態であった。

寶應元年 西暦762年 3

2020-04-02 10:01:06 | Weblog
十月、雍王适至陝州,回紇可汗屯于河北,
回紇可汗[肅宗と義兄弟の関係]は雍王[後の德宗]に甥としての目下の礼儀を要求し、抗議する唐朝の官吏を鞭打った。このため太子[德宗]は長く回紇を嫌悪することになった。

十月癸酉,雍王适克懷州。
甲戌,敗史朝義于橫水,克河陽、東都,史朝義將張獻誠以汴州降。
回紇の騎兵軍の助力を得た唐朝軍は次々と朝義軍を破った。反軍の將達も安禄山の弟分である史思明までは義理関係があり、禄山・思明には統率力もあったが、朝義にはなく崩壊の一途をたどった。

十一月丁亥,朝義將薛嵩以相、衛、洺、邢四州降。
丁酉,朝義將張忠志以趙、定、深、恒、易五州降。
本来は征討すべき賊将だが、回紇の援軍は負担が重く、唐朝には余力がなかった。それを知る僕固懷恩は積極的に歸順を受け入れ早期の平定を目指した。しかしその姿勢は徹底的な平定を考える宦官や武将からの疑惑を招くことにもなった。

十一月己亥,朔方行營節度使僕固懷恩為朔方、河北副元帥。
郭子儀は功績のある懷恩に地位を譲った。彼は代宗・宦官の猜疑を懼れて謹慎していた。

是歲,吐蕃寇秦、成、渭三州。
吐蕃は唐朝の弱体化に乗じて隴右地方を占領していった。

寶應元年 西暦762年 2

2020-04-01 10:02:21 | Weblog
六月己未,解李輔國行軍司馬及兵部尚書,程元振代判元帥行軍司馬。
辛酉,罷輔國兼中書令,進爵博陸王。
増長していた輔國は、代宗と部下の元振が結託して自分を追い落とそうとしているのを予期していなかった。ここで兵権を奪われ、内殿での居住も禁止された。そして宰相職も罷免されたが郡王という虚名だけが加えられた。

七月乙酉,殺山南東道節度使裴戎。
肅宗時、山東來瑱を警戒して淮西に転出させ、山東には戎を赴任させた。ところが瑱が荒涼とした淮西への赴任を拒否すると、すぐに山東に戻した。瑱が戻ると既に戎が就任しており両者の戦闘となり、当然ごとく戎は敗北した。唐朝は責任を戎になすりつけて殺したわけである。

七月癸巳,劍南西川兵馬使徐知道反。
厳正で知られた節度使嚴武の就任に反対して蜂起したが八月部下に殺された。

八月己巳,郭子儀自河東入朝。解副元帥、節度使。留京師。
河中・河東の軍乱を平定し帰朝したが、宦官程元振は軍權を奪った。

九月庚辰,以來瑱為兵部尚書、同平章事、知山南東道節度使。
無定見な唐朝は一転して來瑱を優遇し使相とした。

九月丙申,回紇請助戰。
回紇は史朝義の勧誘により南下し京師を襲撃しようとしていたが、息子の義父僕固懷恩の要請により唐を援助して朝義を討つことに同意した。

十月辛酉,雍王适討史朝義。
長子适[後の德宗]を天下兵馬元帥に、僕固懷恩を副元帥として回紇軍と共同して朝義の勧誘を討たせることにした。

十月壬戌,盜殺李輔國。
「盜」とは代宗皇帝が派遣した者である。失脚させただけでは安心できず、いろいろな秘密を知る輔國を抹殺したわけである。そうしておいて「太傅」を贈った。「賊」は首と片腕を切断して持ち去ったので「木首」を与えて葬らわせた。