モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

御霊は愛

2021-05-29 05:45:56 | モルモン書
「御霊を受けて強くなり…」モーサヤ18:26


心が弱いとき、‟不安と迷い、恐れ”があるようです。
御霊を受けるとき、‟安心と決意、勇気と力”を得るように感じます。
それは心を強めないでしょうか。

愛を感じるとき、誰の心にも喜びがあると思います。
御霊を感じるとき、同じ感覚があるようです。
「御霊は神の愛」だと感じています。

愛を感じるとき‟安心と決意、勇気と力”が心に湧いてきます。
よく考えると不思議ですが事実です。
誰もが感じたことがあると思いますがいかがでしょうか。
愛には御霊と同じような‟力”があるようです。

皆さんはどう思いますか?
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悔い改め

2021-05-28 06:36:27 | 総大会
皆さんが新しい日常を取り入れたいと心から願うのであれば…毎日悔い改め…てください。
(新しい日常 ネルソン大管長)


「何を悔い改めればいいのですか?」という質問を聞くことがあります。

心に感じている‟悔い改めるべきこと”はありませんか。
御霊が心に宿ればそれが知らされるようです。

悔い改めという言葉は「悔いる」と「改める」の二つから成っています。
悔いる気持ちは無意識ですが、改めるには意識が必要のようです。

悔いる気持ちがあっても改めるための行動をしないなら、悔い改めは成り立ちません。

心配しないでください。
御霊は‟悔い改めるべきこと”と同時に、‟改めるために何をすればいいのか”も教えます。

それは時々、悔いていることとは無関係に思えることもあります。
「聖典を読みなさい」とか、「人に親切にしなさい」とか…

そんなことが悔い改めにつながることはよくあります。
それはわたしの経験です。
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信仰と悔い改め

2021-05-28 06:35:32 | モルモン書
「悔い改めと…主を信じる信仰のほかは何も説かないように」モーサヤ18:20


福音とは‟主を信じる信仰と悔い改めに導くもの”と考えています。
イエス・キリストのことを話しても、それが‟信仰と悔い改め”に導くものでないとしたら、
それは福音と言えるのでしょうか。
「神の御名をみだりに唱えてはならない」とはこのことを意味しているのではないでしょうか。

主の教えと無関係に思える話であっても、
それが‟信仰と悔い改め”に導くものであるなら福音であると思います。
そう考えると、この世は福音で満ちているのかもしれません。
それを感じるためには信仰が必要ですが。

皆さんはどう思いますか?
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教えると語り合う

2021-05-27 05:51:37 | モルモン書
「預言者たちの口を通して述べられたことのほかは何も教えないように」モーサヤ18:19


教会でのレッスンは‟一人が教師、その他が生徒”という形で行われます。
教師が教え、生徒が学びます。
レッスンとは言いませんが、聖餐式も一人が話し、皆が聞きます。
会議の場は別として、教会の公式のプログラムはすべてこの形を取っているようです。

一方、ファイアサイドではそこに集った人たちが好きなように語り合い、
そこから互いに学び合います。
教会の集会が終わった後に、いつもみんなで集まり語り合ったものです。
その時間が大好きでした。
(今はできませんが、またできるときを心待ちにしています)
語り合うときに、理解は広がり、大きく、強くなるように感じます。

質問です。
御霊に感じたとしても、聖典に記された言葉、現代の預言者の言葉以外には
語るべきではないのでしょうか。
御霊に感じた言葉は‟預言の言葉”となると聞いたことがあります。
そうであれば、御霊を受けていれば心に感じるままに語っていいのでしょうか。

もしかすると大切なことは、何が話されたかよりも、
‟聞く側が御霊によってそれを聞いているか”であるように思います。

ある人がこう言いました。
「預言者の言葉は正しいです。でもあなたはそれを御霊によって正しく理解していますか?」

皆さんはどう思いますか?
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未来を待ち望む

2021-05-26 06:08:35 | 総大会
喜びに満ちた期待をもって未来を待ち望むことができるように
(新しい日常 ネルソン大管長)

人を愛するとは‟その未来を信じること”だと思います。

「今は理解できなくてもいつかは分かってくれるときが来る」
親がよく、子どもに対して思うことではないでしょうか。
それを信じて待つことが子どもへの愛だと思います。

神の人に対する愛もそれに似ているのではないでしょうか。
今は信じなくても、悔い改めなくても、必ず気付くときがくる。
そう信じて、そのときのために、そのときに備えるために、福音を伝えるのだと思います。

では主を信じて、主に期待を持っている皆さんは、未来に何を待ち望みますか。
それを信じて、そのときのために、そのときに備えるために、何をしますか。

自分を愛するとは‟自分の未来を信じること”だと思います。
イエス・キリストを信じる信仰とはそういうものではないでしょうか。
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