昨日、安倍元首相が選挙の応援運動の演説中に凶弾に倒れ、亡くなると言う痛ましいニュースに接しました。
世界一、安全安心な国と言われていた日本で、しかも警察やSPが警護している真昼の駅前での演説中なのです。
信じられません。
言論には言論で対応するのが、日本の社会のはずでした。
まさに民主主義への挑戦です。
暴力による蛮行は絶対に許すことはできません。
安倍元首相のご冥福を心からお祈り申し上げます。
さて、話題は変わりますが、東京にはスカイツリーと言う634mの日本一高い電波塔がありますが、大阪ではナニワのシンボルタワーである、高さ103mの「通天閣」があります。
その通天閣は今年で110歳になりました。
今日は110年を迎えた通天閣について調べました。
「初代通天閣」
通天閣は1903年(明治36年)大阪で開催された第5回内国勧業博覧会の跡地に、当時の大阪商業会議所会頭・土居用夫が理想的娯楽園を作るために、新世界ルナパーク、パリのエッフェル塔を真似た通天閣の建設構想を表明しました。
土居は周囲の猛反対を押し切って、パリの凱旋門にエッフェル塔の上半分を乗せたような初代通天閣を提案し、1912年7月3日にルナパークと共に建設して開業しました。
塔の高さは64mで当時東洋一の高さを誇りました。
このような高い鉄塔であったことから、「天に通じる高い建物」との意味で、明治初期の儒学者・藤沢南岳により「通天閣」と命名されたのです。
・当時東洋一の高さを誇った「初代通天閣」です。
「2代目通天閣」
初代通天閣は1943年(昭和18年)1月、近所にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちました。
その後、1953年頃(昭和28年頃)、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展しました。
ところが、初代通天閣のあった場所には既に民家が建ち並んでいたことから、ほど近い公園に再建することとなり、1956年(昭和31年)10月28日に現在の通天閣が開業しました。
2代目の通天閣は103m、初代より39m高く、5階には大阪を一望できる展望台や、足の裏をなでると幸運が訪れるという神・ビリケン像などがあって、年間100万人以上が訪れる大阪のシンボルタワーとなっています。
なお、通天閣の頂上の丸いネオンは、色の組み合わせで明日の天気を知らせる「光」の天気予報装置となっています。(白=晴れ、橙=曇り、青=雨)。
・現在の通天閣です。正面には日立のネオンサインが灯ります。
「日立との関係」
1953年頃(昭和28年頃)、通天閣再建の熱意が実って二代目通天閣の建設がスタートしましたが、資金繰りは簡単ではありませんでした。
多額の建設費用を賄うために考えられた案が「広告収入」でした。
ところが、その条件が厳しかったのか、なかなか話はまとまりませんでした。
そのような時に、広告代理店から東京の取引先であった日立に声がかかりました。
日立は通天閣が再建された1956年(昭和31年)に白黒テレビ第1号機を発売し、家電事業に本格参入した時期でした。
競合がひしめく関西エリアで日立の名を広めたいという思惑と、通天閣を再建したいという地元の想いが合致して、日立が通天閣にネオンサインを出すに至ったのです。
・二代目(左)と三代目(右)のビリケンさんです。
ビリケン像は尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をした幸運の神の像のことで、1908年(明治41年)にアメリカのフローレンス・プリッツという女性芸術家が夢で見た幸運の神様をモデルに製作したものが起源になっています。
当時のアメリカ大統領ウィリアム・ハワード・タフトの愛称「ビリー(Billy)」と英語で小さいを表す「~Ken」を加えたのが「ビリケン(Billiken)」の名前の由来です。