ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

子どもへの暴力と 自分の親との関係

2008年11月13日 | これも自分あれも自分
子どもへ暴力を振るったこと、ありますか?
手を挙げること
足で蹴ること
物を投げつけること

無視すること
傷つけるようなことを言うこと
いじわるをすること
子どもの日記を見ること

ここに挙げたことはすべて、私はしたことがあります。
子どもが泣き叫び、「ごめんなさい!」と叫んでいても、止めなかったこともあります。

そんな私は、異常でしょうか?

暴力をふるっている時分は、正気は失っているかもしれません。なぜなら、冷静に「やめなくちゃ」「私は何をしているんだろう?」と頭の中のもう1人の自分が考えていても、体や手や口の動きは止まらないからです。
ここでもし、裁判になるようなことになっていたら、この冷静なもう1人の自分の存在のいることで、精神衰弱とは見なされず、責任能力があったとして、刑を受けなくてはならないのだろうな、ということまで考えていたりします。

そこまで冷静沈着なのに、なぜ、止められないのでしょうか?

こんな私は、いえ、こんな私だけが異常ではないと思います。これを読まれた親ならば、もしかしたら私と近い感情を持ったことがあるのではないでしょうか。
ただ、こんなことは公言することではなく、我が家の中の秘密にしておくことの方が多いというだけなのではないでしょうか。

外ではいい母親・よき父親に見えていても、家の中ではイライラし、ムカムカする時だってあるものです。そんな時、思わず家庭の中の一番の弱者である子どもへと、そのイライラの矛先が向けられてしまうときがあるのです。

私の場合、たいてい決まっているパターンがあります。
自分の体調が悪い時、やりたい作業が滞っている時、パソコンで遊んでいる時、子どもの相手をしたくない時など、自分自身に焦点が当たっている時に、子ども達が何か注文をしたり、お願いしたり、ケンカして騒いだりしてくると、途端に頭が血が昇って、般若の顔に変貌してしまいます。


私が怒りに任せて初めて怒った時、自分の親にそっくりだなと感じました。親から受け継いだのは、要旨や考え方やしゃべり方だけではなく、叱り方、怒りのパターンもだったのです。そして、怒りという嵐の中で私は、親に似ている自分への情けなさと、そこから抜け出したいという叫びとで、もがきます。

「私は親から、こんな風に育てられた!!だからこれくらいしても、我慢できるでしょう!?」

そう思ってしまう時もあります。
でもこれは真実を言えば、

「誰か、この嵐から抜け出させて!私の親とは別な人格なはずなんだよね!?」
と言いたいのではないだろうか?


「これが当たり前の子育て!これが私の育った環境!何が違うの!?」

こう考えて、正当化しようとする時もあります。
でもこれも、心の中の素直な気持ちは

「助けて! 誰か気づいて! 私はこんなことしたくない!」
なのではないでしょうか?


私のしてきたことは、児童虐待に入るでしょう。
ただ、怒りの途中で気がついて、怪我をする前に止めるとか、あざを作るまで叩く、怪我をさせるくらい強くぶつ、食事を与えないなどとエスカレートするまでには至っていないだけで、その境界線はとても曖昧なものではないかと思います。

虐待をする親に、「叩かないで!」と言っても、その心は届かないと思います。かえって、自己嫌悪に陥り、そのやり場のない気持ちをまた、子どもへと向けることになりかねないからです。
明らかに子どもへの健康被害が生じている場合は、即止めるように強く言うべきですが、そうではない虐待であれば、親へ禁止をするのではなく、その親の抱えている問題を解決するように、親の話すことに傾聴することがまず必要なのではないだろうかと思うのです。

「あなたは、何を抱えて生きてきましたか?」
「あなたは、何に怒りを抱いていますか?」
「子育て、思うようにいかないですよね。毎日たいへんだと思います。
 よく頑張っていること、分かりますよ。」
「何かお手伝い、できることがあるかもしれないから、連絡をください。」
「よく頑張ってこられましたね。あなたはもう1人じゃないです。いつでもいらしてくださいね。」

そんなふうに話を聞いてくれ、癒してくれる人と場所があればいいのですが。
その人にとって合う人と場所は、千差万別ですから、千差万別の人と場所とがあるといいのですが。

私は、子どもが大きくなるにつれ、少しずつですが暴力を振るってしまう自分と卒業しつつあります。
それは、子どもが育ってきたからということもあるかもしれませんが、自分の気持ちを聞いてくれる友人たちがいること、人の気持ちを聞くというスキルを学んだこと、子どもの成長について勉強したことがかなり影響していると思います。

子どもと私とは別の人格であるということを、真から理解することで、かなり楽になりました。
子どもを産んだからといって、すぐにプロの親になれるわけではありません。育てながら親になっていくものだといいます。
でも、地域のつながりの強かった一昔前なら、自分だけでなく、近所の方々、親戚の方々に育ててもらいながら親になれたのだと思いますが、現在はその地域状況がすっかり変わってしまいました。
現在子育てしている私たちは、地域内では孤独で、だけど「いい親」であることを望まれているから、しんどいです。

だからこそ、子育てのスキルを教えてくれる場所が必要だし、誰もが無料で、しかも出来る限りすべての人への教育が必要でないかと思います。
子どもの発達のこと、子どもとのコミュニケーション方法、人の話の聴き方、思春期へとつながる幼児期の子育てなど、学んだ方が子育てが楽になることは、たくさんあります。

昔、近所のおばちゃんたちが教えてくれていたことを、今はセッティングしていかなければならない時代になっているということなのです。

児童虐待は、社会ではぐれた親たちの叫びだと思います。






ポンポン玉と水晶

2008年11月13日 | これも自分あれも自分
我が家には、越してきてからずーっと何か気配を感じる箇所がある。

裏が廃屋の病院が建っていたこともあるのかもしれないと、あまり気に留めないようにしていたが、その病院が解体された今でも、その薄気味の悪いところはそのままだった。

とうとう、次女が
「怖いからトイレに行きたくない!」と言い出した。
しばらくずーっと、誰か大人が一緒に行かないと、トイレに1人では行かなくなってしまった。
暇な時は付き合うも、家事や電話や用事を済まさなければならないときは、とても億劫だった。

最近、いろんなスピリチュアルな本を読み漁り、その中に共通していたのが、
ー空気が滞るところには、照明を点けたり、観葉植物を置いたり、水晶を置いたりするといいー
というものだった。

我が家の滞る場所は、ちょうどトイレの前、そして洗面所・浴室へと続く短い廊下だった。
狭い廊下に、たまねぎや大量のさつまいもを入れてあるダンボール箱は置いてあるけれど、そこに観葉植物を置くスペースはなく、一応借家なので、照明器具をつけるわけにもいかなかった。

よし!と考えた挙句、水晶をどうにかして置くことに決めた。
どのような形のを、どのようにして置くのがスペースを取らず、空気を浄化することができるのか考えながら、毎日を過ごしていた。

とある手芸屋さんで、ふと目に留まった羊毛でできた、まん丸がいっぱい付いたすだれ

とっても可愛くて、大好きなまん丸という形に、思わず「これだ!」と思ってしまった。
道具を買う。
帰宅して、とにかく羊毛に針を射す、射す、射す、射す・・・。

できたポンポン(我が家ではこう呼ぶようになった)7色を、オーガニックの毛糸に通して、出来上がり!!

そして、お花が終わった紫陽花の枝を適当に折ったものに、この初代ポンポンと水晶のネックレス(これも購入)とを並べてかけて、空気の滞る場所へぶら下げた!

すると、ぶら下げた瞬間から、そこの空気はさーーーーっと綺麗になっていったのだ

不思議なパワーだなぁ。

これがあるおかげで、我が家の臆病な次女も、夜だって1人でトイレに行けるようになった!
なんだか嬉しいこと

水晶は、使用する前に月の光で浄化した。

我が家のパワースポットになったかも!?

おススメです。

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