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人格の音楽

2020-07-07 06:52:17 | 音楽

 まず書きたいのは僕が新しく買ったCanon EOS Kiss X10の優秀さである。前回の記事の上から二つ目の寺院の中の写真だが、床面に移った光と影の非常に緻密で繊細な表現、これが一眼入門機の性能とは思えないほどだ。僕はカメラの専門家ではないので何がいいのかは正確にはわからないが、Canonの画像センサー、画像エンジンの優秀さをはっきりと表していると感じる。
 正直ここまで優秀だとは思ってなかった。改めて惚れ直している。

 

 さて、今日の話題は音楽について、それもとりわけバッハについてである。
ピアニストはアンジェラ・ヒューイット。カナダのピアニストだが、僕はこの人の生演奏を何回か聞いたことがある。なかでも一番忘れられないのが、いまから15年ぐらい前だろうか、東京オペラシティーホールで聴いた彼女の演奏するバッハのゴールドベルグ変奏曲だ。あの演奏はたぶん、一生忘れられない演奏になるだろう。

 クラシックの作曲家の中にはもちろんいろいろな人がいる。僕は自分の趣味の領域に関する限り、かなり偏食傾向の強い人間なので、作家にしても、作曲家にしても自分の好きな人の作品だけに偏って聴き読む傾向が強い。なので、幅広い知識や体験は持っておらず、僕の感想は偏ったものになりがちではある。

 ただ、ユーチューブというもののおかげで、様々な作曲家の音楽を聴くようになって、それぞれ独特の特徴、価値というものがわかるようになってきた。ただ、この映像の冒頭のアンジェラの言葉にもあるように、また、吉田秀和氏の遺した言葉にもあるように、やはり、究極的、総合的には三人の作曲家に集約されていくように思う。それはバッハ、ベートーベン、モーツァルトである。
 この三つの高峰の到達した高み、いただきはとびぬけている、群を抜いている、他を寄せ付けない、という言葉を使っても決して言い過ぎではないほどの総合的、質的優越性を持っていると僕も感じる。

 特に最初の二人に対して、僕は深い敬意を抱いている。モーツァルトもあれほど若死にをせず、最初の二人のようにせめて60歳近くまで生きていれば、神から与えられたその才能の並外れた大きさを考えれば、さらにどれほどの傑作を残したか……本当に惜しいと衷心から思う。

 それではバッハの何がそんなに僕の心をとらえるのか、それは彼の音楽に現れる彼の人格である。抽象的な言い方をすれば精神性である。
しかし、やはり、「人格」という言葉が僕には一番しっくりとくる。彼の音楽を聴いていると、彼自身の人格、人間性、心、といったものが音として結晶化しているとおもうほど「生きた」彼を感じる。心の奥のほうにあるひだまで見えるような気がするのだ。

 なので、とくにバッハとベートーベンの音楽を聴いていると思うのが、聴きながら彼らと「対話している」という感覚になるということ。そう、一方通行ではなく、双方向の「対話」である。このことをこれほど強く感じるのは、この二人だけで、僕の聴いた限りほかの作曲家からはこの二人ほど強くは感じない。

 このブログの中で何度も何度も触れてきていることだが、その演奏家の真価というものは、やはり聴くだけでは十分には感知できず、見てみなければならない、ということを改めて感じさせられるのがこの映像に現れる彼女の演奏である。
 52分48秒当たりの一つの曲が終わってから、次の曲BWV643を弾き始めるまでに彼女がとる間合い、呼吸、といったものの中に彼女がこの曲をどうとらえているか、どう感じているか、どう扱っているか、といったことが端的に見えるような気がする。

 そういう意味では、コンサートピアニストというのは「すべてが見られている」わけで、ある意味怖い職業ではある。もちろん、それだからこそやりがいのある仕事ではあるのだが。
 この映像に表れている間合い、彼女の呼吸…といったものに、彼女のこの曲にたいする想い、devotion、respect、もっというならばfaith 敬虔さ、といったものさえもが現れているような気がする。

 ここからはまさにバッハその人の魂がコンサートホールにたち現れてくる。その意味では、バッハは永遠に生きているのである。
バッハというとすぐにキリスト教に結び付けられて捉えられることが多く、それはそれである程度は間違ってはいないのだが、それだけでとらえると彼の作品の真価を矮小化してしまうことになる。

 彼の作品はある特定の狭い世界、価値観の枠内にとどまらない。それを超えた普遍性に達している。そうでなければ彼の死後300年以上も、こうして何度も何度も世界中のいたるところで演奏され、特定の文化、宗教を超えて多くの人々の心に訴えかけるということは起こらない。

 そこには「人間バッハ」がある。
僕らと同じように、この世を生き、苦悩し、あこがれ、夢を抱き、愛し、ときには絶望し、切望した、人間バッハがいる。僕らと同じ赤い血の流れた、その肌に触れれば体温さえ感じられるような、人間バッハがいる。それが奇跡的にも彼の音楽として顕現しているのだ。

 この最後の曲、BWV643を聴いていて(見ていて)僕はそういう感慨にとらわれてならなかった。
演奏している時の彼女の表情、体全体の細かい動き、それらのなかに彼女がいかに「それ」を感じ取りながら弾いているのかが見て取れる。
 
 そしてエンディングの56分20秒あたりからの映像、この映像のなかにも彼女のこの曲への、いや、バッハへの想い、バッハに寄せる彼女のまごころ、といったものがはっきりと見える。
 通常、聴衆の入ったコンサートホールではこの間合いは拍手で打ち消されてしまう。非常に残念なことだが、演奏家はもっとも大切な貴重なこの時間を台無しにされながら笑顔で聴衆の拍手にこたえなければならない。

 でも、コロナウイルスの影響で無人のホールで演奏されたこの映像では、ありがたいことに、このクラシック音楽では、いや、とりわけバッハやベートーベンの音楽にとっては、最も大切な、貴重な時間が守られていて僕らはそれを目にすることができる。

 ここで芥川龍之介の言葉を僕は思い出すのだが、それは音楽の演奏が終わった後の拍手は悲しい慣習である、何故ならその時間の中でこそ我々はその作品の真価を感じ取れるのだから、と述べていたものだ。もし芥川が生きていてこの演奏を聴いたら、いや、見たら、どれほど深い感銘を受けるだろうと思う。

 この間合いの中にあるアンジェラには余計な雑念は無論ない。もし禅の「無のこころ」という言葉を体現するとすれば、この時の彼女の心境をいうのではないかと思うほどである。この時間、彼女はバッハと一体になっている。いや、それさえも越えて、もっと普遍的なもの、ある超越したもの、と一体になっている。「永遠」というものさえ感じさせる、そんな時間である。

 僕の尊敬するもう一人のピアニスト、アルフレッド・ブレンデルの言葉に興味深いものがある。彼がベートーベンの作品を弾いた後に残した言葉で、この曲の後に生みだされた余韻、それが生み出す世界を壊さないもう一人の作曲家を思い出した、それはバッハであり、このコンサートのアンコールにこたえる曲として最もふさわしいバッハの曲を選んだ。聴衆の皆さんには一つお願いがあります。この演奏が終わっても拍手はしないでほしいのです。というものだった。

 そう、楽譜には表れない空間、つまり、耳には聞こえてこない「音」のなかにのこり、聴こえてくる世界というものが特にこの二人の作品にはあり、それがこの映像にもはっきりと具現化されている。

 この映像の最後にこの男性、たぶんBBCの人だと思うが、シューマンの言葉を引用していて(57分25秒、ぼくの聞き取り能力の限界でもしかしたら違っているかもしれません、その際は悪しからず)この曲を聴いていると、この人生、世界が私から奪ったかに見えるTrust, Faith 信頼する、信じる、ということや信仰を保つということ、をもう一度restore 復活させてくれる、というものがあって、その言葉が強く僕の中に残った。

 シューマンのこの言葉を聞いていると、この曲に対するコメントではなかったと思うが、バッハの他の曲に対するコメントとして吉田秀和氏が残していた言葉が僕の中で反響する。それはたしか、あの9.11の悲劇が起こった後だったと思うが、彼がこの秩序も何もないかのように見える世界に生きていて、唯一、その秩序を再び思い出させてくれるのはバッハの音楽である、というものだ。

 この演奏は彼らでさえ感じた悲しみ、絶望からの魂の「復活」を僕らにも感じさせてくれる、それほどの貴重な演奏である。

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