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陰翳礼賛から

2021-06-07 20:32:34 | 文学

 われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。
そして室内へは、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには明かりをつけるが、座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、その乏しい光線の、柔らかい弱い味が消える。

 われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り付いて辛くも余命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或いはほのぐらさが何物の装飾にも優るものであり、しみじみと見飽きがしないのである。

 さればそれらの砂壁がその明るさを乱さないようにとただ一と色の無地に塗ってあるのも当然であって、座敷毎に少しずつ地色は違うけれども、なんとその違いの微かであることよ。それは色の違いと云うよりもほんの僅かの濃淡の差異、見る人の気分の相違というほどのものでしかない。しかもその壁の色のほのかな違いに依って、また幾らかずつ各々の部屋の陰翳が異なった色調を帯びるのである。

 ~中略~

 われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の重要さを表具に置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。

 それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、茶の間の床にかけてみると、非常にその部屋との調和がよく、軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。そしてそういう書画、それ自身としては格別のものでもない軸物の何処が調和するのかといえば、それは常にその地紙や、墨色や、表具の裂(きれ)がもっている古色にあるのだ。その古色がその床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保つのだ。

~中略~

 つまりこの場合、その絵は覚束ない弱い光を受け留めるための一つの奥床しい「面」にすぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。われらが掛け軸を択ぶのに時代や「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、よほど注意しないと床の間の陰翳を打ち壊すのである。

 

 谷崎潤一郎の陰影礼賛から。

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