最近ちょっとショッキングなことがあり、もしかしたら信仰そのものまで捨てなければいけないのかな、というところまで追いつめられていた。
僕はこういう時、絶望の崖の一歩手前のところに立ち、底なしのがけ下を望みながらも、自分の信仰する神にさえ特に祈願することもなく、ただ自分の心が落ち着くところを自然に探すだろうと思って流れに任せていた。
予想通り僕の心は荒れ、一時はもうだめかなと思うところまで行った。
しかし同時に、僕はそうなればなったで、僕という人間はそれだけのものだったのだろうと思ってもいた。
面白いのは、それほど危機的状況にいたのにもかかわらず、もう一人の自分はかなり冷静に自分を眺めていて、いったいどこに落ち着き先を見つけるのか見届けてやろうと思っていた。
実はこれと同じ程度の危機を6年ほど前にも経験していて、あのときもさすがにもうだめかなと思ったのを覚えている。
結論から言うと、僕は自分でも驚くほどの危機からの回復力、復元力を見せた。
良心は努力して獲得するもの、何か外部に存在するものではなく、すでにぼくの本源的な一部として内在していると云う事に気付かされた。
もちろん同時に、これは悪も僕の本源的な一部として、なにか外部に存在してるものではなく、内在していると云う事と並列に書かなければならない。
しかし、どのようなことがあろうとも、おそらく僕が戦場へ行き、そこで人間の悪魔のような残忍さを見せつけられたとしても、良心というものは絶対に死なない、と、今僕は信じる。
そう思わせてくれる一連の経験だった。
この復元力はいったいどこから来るのか…
先日、BBCの報道で原爆を特集したものがあったので、見ているとき、あれだけの熱風と放射線を浴びながら、70年たった現在でも生きている木を見て、イギリス人のリポーターが
このresilience レジリエンス(回復力)には驚かされる、と述べていた。
それを見て、ちょうど最近自分が経験したことと重なったのである。
あれほどのものを見ながら、僕の心のどこにこれほど強靭なレジリエンスがあったのか。
それともこれは僕の力ではなく、神の御力なのか。
何かがしっかりとつかんではなさない、僕の良心というべきものを。
ただ一つ言えるのは、これはたぶん、ある種の運命というものではないかという事だ。
ここでいう運命というのは、もはや人の意志の届かないところにある力とでもいえようか。
先日、2年ほど前に知り合ったある女性から「私はあなたを信用してる、最初から」と真顔でいわれた。
僕はたまげた。確かに知り合ってからそれなりに時間はたっているが、僕が彼女と話をしたのはせいぜいすべて合わせたとしても1時間もないだろう。
一体全体この人にどうしてそこまで断定的なことが言えるのか…僕自身さえ僕がだれだか本当にはわからないのに。
この彼女の言葉、この言葉を発した時の彼女の語気に込められた真剣さ……まっすぐ僕の心の奥まで見通すようなあのまなざし……
私はあなたを信用してる、最初から
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