僕がよく見に行くブログで大江健三郎氏の記事が載っていた。
新聞の部分をクリックすると新聞記事が拡大されて読みやすくなる。
その中で以下のような文章があった。
『日本が戦争に参加させられる近い将来への市民の驚きの声が低いのが不思議だった。普段は意識しないが、今の壮年の世代の時代の精神と僕はずれてしまったのだろう、自分らの時代の精神は消え去ったと思いました』
戦後という時代を経験していない僕にも、これはある程度想像できる。
というのも、僕が10代だったころと今とでは明らかに日本人の戦争観に変化が出てきているのは感じているからだ。
たとえば、「秘密保護法」にしても集団的自衛権を行使するための解釈改憲にしても、僕が10代のころ(80年代)まではたとえ圧倒的多数を占めていた自民党であっても公に言うことははばかられる、もしマスコミに漏らしでもすれば内閣が辞職に追い込まれるほどの問題だった。
それが今では首相が堂々と発言し、実際にその手続きに入って行ける時代になっている。
『時代』の変化というものを感じざるを得ない。
いい悪いではなく、時代とその精神というものは変わっていくものだということだ。
ただし、世論調査をしてみると反対している人が過半数を占めているということもまた事実である。
『にもかかわらず』そういうことをしようとしている政党、政権に国民の過半数が投票しているという現実。
ということはつまり、多数の国民は政権を選ぶときなにかと妥協しているということではないだろうか。
何か・・そう、我々の人生に絶大な影響力を持つ「景気」つまり「Money」か、それとも何かのあがないえない(と信じている)しがらみなのか。
理想はいってもそれでは飯は食っていけない。だから、モラル面で問題のあるものたちであることはわかっていても彼らの属する政党に投票するのだろうか。
原発事故で今なお数十万人が難民状態、半径数十キロ圏内という広い土地がほぼ半永久的に人が住めない状態になった、そして、これから表面化するであろう放射能による疾病が発症するこれまた数えきれない人々。
『にもかかわらず』我々は原発を国のエネルギー政策として推進してきて、これからも推進していくと公言する政党、政権に投票している。
僕のブログの言葉遣いが時に辛辣になるのも、こういう現実に対するどこにも表現のしようのない怒りがマグマのように滞留しているからでもある。
しかし同時に、そういう人々の気持ちもわかる年齢に僕もなってきてはいる。
しかし…それでいいのか…
憲法を解釈で変えるということは、いわば、法律を破る必要が出てきたら解釈で変えて破り、それでもつかまりもしなければ刑務所に入ることもない、ということと同じである。
こんなちょっと考えれば「間違っている」とわかることを、大人が、しかも国政を預かる普段「先生」と呼ばれてたとえ形だけにしても尊敬されている人間たちがやろうとしている。
そしてそれに対して多くの良識のある大人たちが「間違っている」とわかっていても投票行動によって「支持している」という事実。
生活のため、生きるため、あるいは、もっとそれ以前に諦めからか
僕はそれを責めることはしない、自分もその立場に立てば同じことをするかもしれないから。
『しかし』それでほんとうにいいのだろうか
僕らは知らず知らずのうちに悪魔と取引をしてしまっているのではないだろうか。
汚してはいけない、売り渡してはいけない魂を、手放してしまったのではないか、毎日の惰性の中で。
僕は子供がいない、だからいいとは言わないが、自分がいなくなればすべてごわさんである。
でも、子供のいる人々は今彼らが投票行動で行っている選択が、自分の血を引く子供、孫、その先の子孫たちの人生、一生に直接の影響を及ぼしていく。
自分の理想だけでなく、自分の子供、そしてその子供たちの将来まで妥協しているということになりはしないだろうか、今の自分の生活、富、あるいはしがらみのために、あるいは…無意識に拡がる静かなる絶望のために。
ほんとうに、ほんとうに、それでいいのだろうか…
この大江氏の記事をよんでいるうちに、そんなことを考えた。
新聞の部分をクリックすると新聞記事が拡大されて読みやすくなる。
その中で以下のような文章があった。
『日本が戦争に参加させられる近い将来への市民の驚きの声が低いのが不思議だった。普段は意識しないが、今の壮年の世代の時代の精神と僕はずれてしまったのだろう、自分らの時代の精神は消え去ったと思いました』
戦後という時代を経験していない僕にも、これはある程度想像できる。
というのも、僕が10代だったころと今とでは明らかに日本人の戦争観に変化が出てきているのは感じているからだ。
たとえば、「秘密保護法」にしても集団的自衛権を行使するための解釈改憲にしても、僕が10代のころ(80年代)まではたとえ圧倒的多数を占めていた自民党であっても公に言うことははばかられる、もしマスコミに漏らしでもすれば内閣が辞職に追い込まれるほどの問題だった。
それが今では首相が堂々と発言し、実際にその手続きに入って行ける時代になっている。
『時代』の変化というものを感じざるを得ない。
いい悪いではなく、時代とその精神というものは変わっていくものだということだ。
ただし、世論調査をしてみると反対している人が過半数を占めているということもまた事実である。
『にもかかわらず』そういうことをしようとしている政党、政権に国民の過半数が投票しているという現実。
ということはつまり、多数の国民は政権を選ぶときなにかと妥協しているということではないだろうか。
何か・・そう、我々の人生に絶大な影響力を持つ「景気」つまり「Money」か、それとも何かのあがないえない(と信じている)しがらみなのか。
理想はいってもそれでは飯は食っていけない。だから、モラル面で問題のあるものたちであることはわかっていても彼らの属する政党に投票するのだろうか。
原発事故で今なお数十万人が難民状態、半径数十キロ圏内という広い土地がほぼ半永久的に人が住めない状態になった、そして、これから表面化するであろう放射能による疾病が発症するこれまた数えきれない人々。
『にもかかわらず』我々は原発を国のエネルギー政策として推進してきて、これからも推進していくと公言する政党、政権に投票している。
僕のブログの言葉遣いが時に辛辣になるのも、こういう現実に対するどこにも表現のしようのない怒りがマグマのように滞留しているからでもある。
しかし同時に、そういう人々の気持ちもわかる年齢に僕もなってきてはいる。
しかし…それでいいのか…
憲法を解釈で変えるということは、いわば、法律を破る必要が出てきたら解釈で変えて破り、それでもつかまりもしなければ刑務所に入ることもない、ということと同じである。
こんなちょっと考えれば「間違っている」とわかることを、大人が、しかも国政を預かる普段「先生」と呼ばれてたとえ形だけにしても尊敬されている人間たちがやろうとしている。
そしてそれに対して多くの良識のある大人たちが「間違っている」とわかっていても投票行動によって「支持している」という事実。
生活のため、生きるため、あるいは、もっとそれ以前に諦めからか
僕はそれを責めることはしない、自分もその立場に立てば同じことをするかもしれないから。
『しかし』それでほんとうにいいのだろうか
僕らは知らず知らずのうちに悪魔と取引をしてしまっているのではないだろうか。
汚してはいけない、売り渡してはいけない魂を、手放してしまったのではないか、毎日の惰性の中で。
僕は子供がいない、だからいいとは言わないが、自分がいなくなればすべてごわさんである。
でも、子供のいる人々は今彼らが投票行動で行っている選択が、自分の血を引く子供、孫、その先の子孫たちの人生、一生に直接の影響を及ぼしていく。
自分の理想だけでなく、自分の子供、そしてその子供たちの将来まで妥協しているということになりはしないだろうか、今の自分の生活、富、あるいはしがらみのために、あるいは…無意識に拡がる静かなる絶望のために。
ほんとうに、ほんとうに、それでいいのだろうか…
この大江氏の記事をよんでいるうちに、そんなことを考えた。
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