チュラン、つまり「岩山の親分」という名のひとりの老人が、山の中にひとつの小さな農場を持っていた。
ある日のこと、彼の飼っている馬が一頭いなくなってしまった。そこで隣人たちがこの不運に対して老人に慰めの言葉を言うためにやって来た。
老人はしかし質問した。
「お前たちはどうしてこれが不運なことだとわかるのか?」と。
すると見よ、その数日のちに、その馬が戻ってきた。しかも一群の野生の馬をそっくり連れてきたのである。
またもや隣人たちがやって来て、この幸運な出来事にお祝いを言おうとした。
山の老人はしかしこういった。
「これが幸運な出来事だと、どうしてわかるのか?」
さて、こんなにたくさんの馬が自由に使えるようになって以来、老人の息子は乗馬が好きになり始めた。
そしてある日のこと、息子は脚を折ってしまった。
するとまた隣人たちがやって来て、慰めの意を表した。
するとまた老人は彼らに言った。
「これが不幸な出来事であるとどうしてわかるのか?」
それから一年経って、「背高ノッポ」の代表団が、皇帝の軍隊のための強壮な男子と駕籠かきを招集するためにこの山岳地帯にやって来た。
今なお脚に損傷を持つ老人の息子を、彼らは選ばなかった。
チュランは、にっこり微笑まずにはいられなかった。
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これは中国の古典「准南子」の中に収められている「塞翁失馬」、日本では「人間万事塞翁が馬」として知られている話である。
今ふと思い立って敬愛するヘッセの文章を集めた「人は成熟するにつれて若くなる」という本の中にあるのを思い出して再読した。彼もいたくこの寓話がお気に入りだったらしく、生前この寓話を西洋の人々に紹介しているのだ。
この話はあまりにも有名であり、また有名であるだけに少し軽く扱われすぎている。
この話は、年輪を重ねれば重ねるほど、その深みというか、コクというか、凄みというか、そういうものが滲み出してくるように思う。
実は今日、昔のある個人的な悲劇を思い出していた。
この悲劇はずっと20年近く僕を苦しめてきていたものだ。
今日もふとこのことが思い浮かび、あぁ、またか…と思っていたのだが、今日はどういうわけか、この悲劇を全く違った視点から眺めることができた。
まるで神様に襟首を引っ張られて全く別の山の上に連れて行かれて、同じものを全然別の角度から見せられたような経験だった。
今度は今までの山よりずっと高い山だった。
いい意味での青天の霹靂だった。
今まで悲劇だとずっと信じてきたものが、たぶんあれでよかったんだ、きっと。あれがなかったらもっと悲劇的なことになっていたに違いないということが、急にはっきりと見えた。
いままでは失われたものへの執着が強すぎて、それが見えなかったことに気づいた。幸福と見えたことが悲劇への序曲であり、悲劇と見えたことが幸福への入り口だった。
自分の人生でも最大の悲劇の一つだと思っていたことが、実はそうではなかったのではないか
この世で起こること、人の運命は人智を超えている。
どうもそれだけは確かなようだ。
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