Bruce (Xiaoyu) Liu - Tchaikovsky Competition 2019 Round 1
ショパンコンクールの動画を見ていると、次から次へと右側のおすすめの動画欄にこのコンクールに参加していたピアニストの動画が出てくるので見ていると、あるひとりの演奏家の演奏が目に留まった。
そう、かれはこのショパンコンクールで優勝したBruce Xiaoyu Liuである。
優勝した彼だが、別にそうなったから言うのではなく、彼のショパンコンクールの動画を1本見てこれはすごい大器が出て来たもんだと思った。2位になった反田さんが10年に一人の逸材といわれているらしいが、このひとはたぶん3~40年に一人の逸材ではないかと僕は感じる。
ショパンの演奏に関して言えば前回の記事で取り上げた小林愛美さんの解釈、演奏が僕は一番好きだ。
でも、ピアニストとしての総合的、全体的な力量という点から言えば、僕はこの人はショパンコンクールの他の参加者と比較してもずば抜けていると感じる。
音楽に関して専門的な勉強をしたことがない素人の僕でさえ感じるのだから、玄人中の玄人であるあのコンクールの審査員たちならたちどころにそれを見抜いたはずである。
その彼がこの動画では冒頭にバッハを弾いている。
僕の好きなバッハを弾いているというので俄然注目して聴いた。
まず思うのは、やはりこれはバッハの音楽である、ということ。
平均律クラヴィーア曲集の中の一曲だが、3分20秒から奏でられる音は、たとえば今まで聴いてきたショパンの音楽が外側に向かって拡がっていく音楽とすれば、このバッハの音楽は内側に向かって果てしなく拡がっていく。あらゆるきらびやかな音や装飾はほぼない。「原音」というのは僕の造語だが、あらゆる余計なものをそぎ落とした人間の魂の奥底から生まれたばかりの、たとえるなら山の奥深い源泉から湧き出たばかりの純度の極めて高い水のような音である。
バッハの作品の中でもこの平均律クラヴィーア曲集はとりわけそうなのだが、1音1音が独特のしぶい、黒光りのするような「荘厳なつや」を持っていて、その音の醸し出す余韻の先がこの物質界をはるかに越えて、肉眼では見えない、なにか永遠の世界につながっているような……そんな感慨を催させる。
この演奏に限らず、クラシック音楽の演奏を聴いていると、あぁ、この演奏家はたぶん今俺と同じものを(世界を)感じ、見ているんだろうなぁ…とおもう刹那がある。
この曲を弾き終わった後、彼がしばらく音の余韻にひたる数秒間がある。どこか遠い目で何かを見ているようなまなざしをしている。あれはもちろん物理的な何かを見ているのではない。
現世を超えた、その向こう側に拡がっている世界、あえて言葉にするなら永遠・Eternityを見ている…といっていい。
あぁ、この人も同じ世界を見ている……というこの感興、共感はちょっと言葉にできないほどの喜びをもたらしてくれる。
この種の喜び、幸福感は、芸術の表現形態に様々なものがあるが、おそらくクラシック音楽(その中でもとくにバッハの音楽)の演奏からしか感じ取れないものではないかと思う。
永遠というとほんとうに手あかのついた言葉のようになっていて、また、概念としては理解できても、とうぜん有限の世界に生きている僕らには体験することはできない。しかし、バッハの音楽だけはそれを体験させてくれる。有限の世界に居ながらにして、無限を感覚として体感させてくれる、その世界に誘ってくれる。
それはやはり、この人の音楽が本質的に内側に、内的宇宙に向かっていく、内省的な音楽だからではないかと思う。
バッハの音楽を絵に喩えれば、それはもう他にはないといっていいぐらいふさわしい絵がある。それはレンブラントの絵である。
自分の内側の宇宙に深く、深く、どこまでも入り込んでいく……
音楽の本当の価値はその余韻が作り出す世界にあるといったのは芥川龍之介だが、バッハの音楽、そしてベートーベンのいくつかの作品はそのような聴き方、感じ方ができる数少ない音楽だろう。
いま一度想像してもらいたい、感得してもらいたい、Bruce Liuさんのまなざしが見ている先の世界を……
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