お気に入りの古本屋さんがあります。
三鷹にある「上々堂」(しゃんしゃんどう)さん。
とてもレトロな感じの古本屋さんで、とってもおしゃれです。
2週間に一回訪れるお仕事場の帰り、必ず立ち寄り、
お金があるときはどさっと本を買うのです。
わたしは本が大好きです。昔は月に60冊は読んでいました。
学校の図書館で読む本がなくなり、廃本になっているものを
書庫の中に入り込んで読み漁りました。
あまりに熱心なので図書の先生が電気を引いてくれたほど本の虫でした。
上々堂さんはその古い本が詰まった懐かしい匂いと色があります。
さて、今日はその本屋さんで一冊の本を購入しました。
わたしの人生の中には、その人生の道を変えちゃうんじゃないか?
と思うくらいの本との出会いが結構あります(^。^;)
そのひとつの本の作家さんが「氷点」で知られている「三浦綾子」先生です。
わたしは特に先生のエッセイが好きで良く読ませていただきます。
三浦綾子さんは熱心なキリスト教徒としても知られています。
今日はそんな三浦先生の「泉への招待」と言う本を買いました。
帰りの電車の中で早速扉を開き、ぱららんとめくってみると
飛び込んできたのは次のような言葉です。
「あやまちを許すのは人の誉れである」(箴言第19章11節)
この本には聖書の言葉が記してあり、その後にエピソードが続く。
この言葉のあとのお話はこういうものでした。
宮本百合子と言う一人のプロレタリア作家に対する
尾崎ふさという方の講演会の記録を読んだという話。
尾崎さんという方は東北に生まれ、大変貧しい生い立ちであった。
しかしどうしても絵を学びたくて親に洋裁学校に行くと嘘をつき
美術学校に入学する。そこで宮本百合子と出会い、
宮本家で週末少しの時間だけアルバイトをすることになる。
それは百合子の誕生パーティの日の出来事。
友人として食卓に招かれたふさは無意識のうちに
半熟卵の黄身がべっとりとついた皿を持ち上げ舐めてしまう。
貧しい育ちで親から皿は隅々まで舐めろと言われて育ったからだ。
皿を舐めるふさを見て、客は驚き、
果てにはその行為の恥ずかしさにうつむくものさえいたという。
ふさが視線にはっとなった時には遅かった。
「ああ上流階級の百合子の家でなんと無作法な振る舞いをしてしまったんだろう。
ましてやこの家に使われている身の上なのに、どんなに叱られることだろう」
そう思って身を硬くしていた。客はもう誰もしゃべらない。
すると百合子が皿を持ち上げぺろぺろと舐めだした。
「いまどき卵なんて貴重品だもの、もったいないよね」
そう言い言いお皿を舐めたという。
三浦さんは書いている。
「なんと言うあたたかさだろう。なんという大きな心であろう。
わたしはこの記録を読んで胸が詰まった。
許す、ということはこういうことなのだと、初めて知った。
このとき百合子は尾崎さんの無作法をとがめるよりも
何とかして救おうとした。百合子はとっさに自分も皿を舐めた。
皿を舐める生活というものを百合子は思いやることが出来たのだ。
これが本当の許しであろう。」
最近、許しについての本などがいっぱい出ている。
許しってなんだろうなあ?人の話を聞けば聞くほど変な感じと思っていたところだった。
どの許しの話も理屈は解るし、おおー、って思うのだが気持ち善いものがなかった。
わたしは魂が喜ばないもの、善と感じないものは善きものに思えない俗人である。
だけれども、この三浦さんの書き方はとても快かった。
(注:この記事上の文章は原文とは違います。
かなりはしょって書いてありますので、ぜひとも本をお探しになって
ごらんになって頂きたいと思います)
許しという言葉に愛と神さまのちからを感じた。
おかげで幸せな気分になれた。
上手くいえないがとても感謝の気持ちがわいた。
「許し」
わたしは三浦さんが書いているような許しのちからを愛したい。
三鷹にある「上々堂」(しゃんしゃんどう)さん。
とてもレトロな感じの古本屋さんで、とってもおしゃれです。
2週間に一回訪れるお仕事場の帰り、必ず立ち寄り、
お金があるときはどさっと本を買うのです。
わたしは本が大好きです。昔は月に60冊は読んでいました。
学校の図書館で読む本がなくなり、廃本になっているものを
書庫の中に入り込んで読み漁りました。
あまりに熱心なので図書の先生が電気を引いてくれたほど本の虫でした。
上々堂さんはその古い本が詰まった懐かしい匂いと色があります。
さて、今日はその本屋さんで一冊の本を購入しました。
わたしの人生の中には、その人生の道を変えちゃうんじゃないか?
と思うくらいの本との出会いが結構あります(^。^;)
そのひとつの本の作家さんが「氷点」で知られている「三浦綾子」先生です。
わたしは特に先生のエッセイが好きで良く読ませていただきます。
三浦綾子さんは熱心なキリスト教徒としても知られています。
今日はそんな三浦先生の「泉への招待」と言う本を買いました。
帰りの電車の中で早速扉を開き、ぱららんとめくってみると
飛び込んできたのは次のような言葉です。
「あやまちを許すのは人の誉れである」(箴言第19章11節)
この本には聖書の言葉が記してあり、その後にエピソードが続く。
この言葉のあとのお話はこういうものでした。
宮本百合子と言う一人のプロレタリア作家に対する
尾崎ふさという方の講演会の記録を読んだという話。
尾崎さんという方は東北に生まれ、大変貧しい生い立ちであった。
しかしどうしても絵を学びたくて親に洋裁学校に行くと嘘をつき
美術学校に入学する。そこで宮本百合子と出会い、
宮本家で週末少しの時間だけアルバイトをすることになる。
それは百合子の誕生パーティの日の出来事。
友人として食卓に招かれたふさは無意識のうちに
半熟卵の黄身がべっとりとついた皿を持ち上げ舐めてしまう。
貧しい育ちで親から皿は隅々まで舐めろと言われて育ったからだ。
皿を舐めるふさを見て、客は驚き、
果てにはその行為の恥ずかしさにうつむくものさえいたという。
ふさが視線にはっとなった時には遅かった。
「ああ上流階級の百合子の家でなんと無作法な振る舞いをしてしまったんだろう。
ましてやこの家に使われている身の上なのに、どんなに叱られることだろう」
そう思って身を硬くしていた。客はもう誰もしゃべらない。
すると百合子が皿を持ち上げぺろぺろと舐めだした。
「いまどき卵なんて貴重品だもの、もったいないよね」
そう言い言いお皿を舐めたという。
三浦さんは書いている。
「なんと言うあたたかさだろう。なんという大きな心であろう。
わたしはこの記録を読んで胸が詰まった。
許す、ということはこういうことなのだと、初めて知った。
このとき百合子は尾崎さんの無作法をとがめるよりも
何とかして救おうとした。百合子はとっさに自分も皿を舐めた。
皿を舐める生活というものを百合子は思いやることが出来たのだ。
これが本当の許しであろう。」
最近、許しについての本などがいっぱい出ている。
許しってなんだろうなあ?人の話を聞けば聞くほど変な感じと思っていたところだった。
どの許しの話も理屈は解るし、おおー、って思うのだが気持ち善いものがなかった。
わたしは魂が喜ばないもの、善と感じないものは善きものに思えない俗人である。
だけれども、この三浦さんの書き方はとても快かった。
(注:この記事上の文章は原文とは違います。
かなりはしょって書いてありますので、ぜひとも本をお探しになって
ごらんになって頂きたいと思います)
許しという言葉に愛と神さまのちからを感じた。
おかげで幸せな気分になれた。
上手くいえないがとても感謝の気持ちがわいた。
「許し」
わたしは三浦さんが書いているような許しのちからを愛したい。