《自宅アパートの近くの紫陽花 実物は色がとても個性的なのです》
こちら南国は強い雨が降っております。
今日からは5日間くらい雨みたいデス。
さて先週末に無事に2か月を迎え1回目のワクチンを終えたちびさん達。
《お耳も立ちました。悪戯ばっかりのやんちゃ盛りです。》
《寝て、食べて、遊んでの子犬的毎日をお過ごし中(^^)》
あまりの成長のすごさに圧倒されて図ってなかった体重ですが、
病院で計ったら、さすがにかなり大変なことになってました(^_^;)
キミら、超ジャンボさんもいいところデスけど・・・・
先生も「うん、デカいね!(笑顔)」とまたまた失笑入りました(笑)
でも、「いいんだよ~、それぞれの個性だからね。
この子たちが幸せに元気に育ってくれるのが一番!
大きくても可愛いよ。今はご飯も好きなだけ食べなさい~」
と言ってくださりましてねぇ。
先生~~~(T_T)ありがと~~~~!
つっても、あまりに大きいので体重は内緒(^_^;)
まあ、アタシの中では許容範囲って事でOK!(笑)
《また雨ジャン。俺、遊べないじゃん byまろ》
雨が降るとさらに家の中に籠りがちですが、
この時期にしかできない家仕事もあります。
そういうのをじっくりやることも私には大切にしてることデス。
何しろ、やりたくても出来ないことが多い今だからなおさら。
という事で、
1か月前に仕込んだ梅シロップが完成しました。
今年は梅に穴をあけたものと、開けないもの2種類で仕込みました。
穴をあけなかったものは、実のエキスが完全に出て、固く小さくしぼみました。
だけど、香りも味も芳醇です。
穴をあけたものは逆に穴からシロップを吸い込んで丸々としています。
もっと長くつけると、勝手にとろっとジャムみたいになるのですが、
今日はそれを甘露煮にしてみました。
お水とお砂糖を足して圧力鍋で20分で出来上がり。
《とろりとつややかに、なかなかの仕上がりです》
最近、ほーんと買って良かったなぁって思っているのが「圧力鍋」です。
一人の時は、圧力をかけてお料理するだけの量もないし、
そんなの使ってまで料理する気持ちにもならなくて
もっぱら麺をゆでたりとかに使っていましたが、
帰郷移住してからは実家でこの鍋が大活躍なんです。
まあ、ぶっちゃけて言いますと、自宅アパートにはガスがないし(^_^;)
料理したくても、ホットプレートかレンジ。
しかもレンジは先日死んでしまったし…(-_-;)
今や、ホットプレートとポットに頼るのみ…(・。・;
・・・・・・・・・・・・
まあ、それは置いといて(^_^;)
圧力鍋さんのおかげで火を入れる時間も短縮できて、
骨まで柔らかく美味しくできるので助かります。
おかげで人間もワンコも大喜びです。
関東にいる時、カンナちゃんが出歩けない私の代わりに、
近所のホームセンターでお買いものしてきてくれた、このチープな圧力鍋。
当時、一人の私の為に気を利かせて3リットルを買ってきてくれたんですが、
この人数いると(人間5人、犬6匹)間に合わないくらいで(^_^;)
少しずつやりくりして、また6リットルを買うつもりです。
(普通に考えたら多分すごく安いんだけど、私には安くないのですわ~)
と言いますのも、実家に寄せてもらっている時は
必ず掃除と洗濯、そして食事を作らせてもらうんです。
外ではちゃんと働けない私でもね、
少しでもいいので何かの役には立ちたいですし。
病持ちなので気分しだいの気まぐれな行動しかできないけど、
家族は快く受け止めてくれるので助かっています(^^)
まあ、そんなネックを抱えつつ生きているわけなんですけど。
もともと私は雨の日に家の中から雨を見ているのが大好きなので、
雨だからと鬱々とする気持ちにはあまりならなかったのですけど、
最近、ふとした瞬間に情緒不安定な感じになってしまい、
思考能力とか、行動力がパワーダウンしてしまうのです。
そうなると、何も手に着かないというか、何も考えられなくなるし、
やりたくても出来なくなってしまい、無駄な時間が流れてしまうのです。
いえ、それを言えば10年前からそうなんだけど…。
今はまたちょっと違う感じがあり…。うまく言えないのですが。
それに対して、少し残念な気持ちになるのですが、どうしようもなく…。
同じポーズでじーっと固まってしまうことも多く…。
でも、私の信条としては、気持ちが向かないのにやる事こそ
義務と言う名のやっつけ仕事に他ならないし、時間を無駄にすると思うので、
やる気が生まれてくるのを待つのがここのところの日課なのでした。
そういう時、ココロに思い返すことは、
「私らしく善い加減で丁寧に生きる」という事なのです。
これは私の中の普遍的なテーマなのですが、とても大事なのです。
とか言っちゃってますけど、私は特に几帳面ではございません。
どっちかってぇと、かなり大雑把な人間の部類かと思います(^_^;)
ただ、自分らしく、自分が出来る範囲の中で、
何と向き合っても、大切に丁寧に生きることを忘れない事、
そこにある意味を一つ一つ大切にすることが大事かなと思っています。
例えば、世の中には形から入っていく人も多いと思いますし、
丁寧な暮らし、と言うと、モノへのこだわりや、
それらを得てこその暮らしを言う方も居ると思うし、
その形にこそ意味を持っている方も多いと思うのですが、
私はそういう部分にあまり興味がありません。
もちろん、そういうスタイルが悪いというのではないのです。
ただ丁寧な暮らしを提唱していても、そこからメッセージ性も伝わってこず、
ただ見た目の美しさや形ばかりを追っている人の生き方には、
なんの興味も持てないし、何より本当の美しさを感じないのです。
そういう方はその方なりに一生懸命やってるんだとは思うんですけどね(^_^;)
もちろん、全員が全員そう感じるってことでもありません。
こだわりぬいた生活の中に心がガッツリ入っている人だってたくさんいるし。
それはそれで、すごく素晴らしいなぁって思うのです。
う~ん、、、、
なんと言うか、その人の欲望の燃え立ちにしか見えてこない方も居て、
その場合、どんなに綺麗なものを見ても心が冷めてしまうのです。
私は心の伴わないものはなんであれ苦手なのだという事でしょうね。
だから簡素であっても、心のこもっているものには深く感動します。
そして、それらはそんな気持ちが自然と解るものなのですよね。
何故なら、それら自身がそこに込められたものを伝えてくるから。
それらは丁寧をうたう美しい本やブログの世界のような風景でなくてもいいのです。
どちらかと言うと、そういう等身大の美しさは飾らぬ日々の暮らしの中や、
家庭の中のほんの一コマにあるものに潜んでいるのですから。
例えば、子どもを抱いたお母さんの持つ、
雑多にものが詰め込まれた大きなマザーズバッグの中から、
きちんと作られた離乳食なんか出てきたりすると泣いてしまうほどです。
一見、ごちゃごちゃのバッグはだらしない印象を与えるでしょう。
けれど、そのお母さんがバッグにものを放り込まねばならぬほど忙しい中でも、
消して崩すことのない愛情がそこにはあるのです。
自分の何をおいても、いとし子の為に時間を重ねる愛情が解ります。
そんな、その人の中で大切にしている時間こそが
「自分らしく丁寧に生きている」ことなのではないかと感じています。
と言っても、いいかげんで良いという事じゃないんですよ(^_^;)
このお母さんの忙しさは精いっぱいの姿ですから美しいわけです。
どんな状況にしろ、精いっぱいで生きる事、
それは丁寧に生きることの最低条件ですもの。
実際、その上で出来ない事は仕方ないのです。それ以上は出来ない訳だから。
でも、出来るのにやらないのは丁寧に生きる以前の問題の気がします。
先日、ある先生が国語は普段から言葉を大切にしない人には、
決して出来るようにならない、と言い切っておられました。
言葉を母国語だからと侮って、国語なんて感覚の問題でしょ、
と、いい加減に扱っていると、意味が理解できなくなり、
言葉を正しく使うことも理解することも出来ません、と。
今の人は適当に言葉を扱うので、物事全てが希薄なのだ、
きちんと最後まで丁寧に考えることを怠っているのだ、と。
何でもかんでも適当にやっていては未来も無くなる。
本当に大切な意味を理解できなくなるからです、と。
だから国語が出来るようになるには、まず普段から言葉を大切にすること。
そして、一つ一つの意味をしっかりと考えることです。
そうすれば、おのずと人生も大切に生きられるようになるのです、と。
善いこと言うなぁ、って思いましたね~。
ちょっとジーンとしました。
私の周りにも、今どきの方たちがいますが、
先生と同じように懸念してしまうことが多いのです。
何故なら、何事も、いいかげんだから(^_^;)
いい塩梅って意味の良い加減ではなく、
中途半端もいいところの「いいかげん」さが目立つからです。
例えばですね、いろいろとお手伝いしてくれたりはイイのですが
いつもどこか抜けているのですよねぇ、、、、(-_-;)
例えば、
出したものを元の場所にきちんと直さない(違うところに置く)とか、
使ったものを洗うまでは善いが、最後まで片づけない、とか?
ってか、キミたちってば、きちんとなおせない病気なの??
って時に思ってしまうほどなんデスわ(^_^;)
でも、これって、自分のやっていることを大切にやっていないから起こることデスよね。
やってることに対する思いがいいかげんだから、そこまで気が回らないのです。
つまりは自分の事しか考えていないから、そうなっちゃうってことなんです。
これはウッカリとは全然違います。だから、こっちもガッカリします。
頼んだお手伝いですら、そんな感じですから、
自分で決めたことなんて、出来るわけないのですよね~(-_-;)
見ていると、大概、三日坊主で終わります。
根性ない事この上なしで、またかい?と笑いが出てくるくらいです。
しかもこういう人々は言われたことだけやればいいと思って居たりします。
言われていない事は基本「自分がやってないし関係ない」らしい(笑)
言われたことだけやって、ハイ、それでおしまい。
例えば、毎日学校に行って、朝の時間を有効に使う事を続けても
学校が無くなったら、ぐうたらな生活をしてしまうのと同じ。
その身についたことを生かそうとは思わないのだよなぁ。
だから、結局なーんにも身につかない。
ただそれをやっただけで終わってしまう。
本当に大切なことは、それをやる事じゃないんですけどね。
それをやることで見えてくるものを大切にすることが大事なんだけどね。
きちんとやらないから、そこがわからないんだろうなぁ。
きちんとそれをやれば、やる意味も自然と解る、
それが解ったら、本当に大切な事も見えてきて、
何を大事にすればよいのか解るのになぁ。
しかもですよ、そうやって楽して生きてしまうと、
やらねばならない事を後回しにしすぎて
結局、大事な時間を無駄にしてしまうのですよね。
やらねばならない事って、実はわずかなことが多いです。
水を飲んだコップを流しに持っていくとか、
たたんだ洗濯物を取り込んだら必ずたたむとか、
そういう、本当に小さい時間でできることです。
でもねぇ、いいかげんに生きるのに慣れちゃってる人はそれをしません。
明日でいいや、また今度やればいい、そういって今の楽を選ぶのです。
結果、部屋は荒れ放題、大事な書類も出し忘れ、って事になりやすいのですよ。
どこかでこういうキャッチフレーズがありました。
「明日やろう、は、バカやろう」
ホントそうなんですよね。
そんな小さな時間を丁寧に生きたら、もっと大切に生きられるのに、
ってとても残念。と思うこと多しデス(^_^;)
結局、何事も精いっぱいやっていないからだと思うんですよね。
この「精一杯」は先の先生の言うところの「大切にする」というのや、
先に書いた「丁寧に生きる」のと同じ意味合いだと思うのですよ。
精一杯やっていると、いろんな事が見えて来るものですが
適当にするから、いつまでも、その大切なことが見えてこないのです。
でも、この頃は感覚が違うんでしょうか?
先日も家族と出かけたスーパーで小学生の子がお母さんに、
「グループでなにかやるとさぁ、皆でやらされるから嫌だ」
と言ってました。
(グループだもん、当たり前かと思うが?
違う仲間がみんなでやるから意味があるんじゃ?
と、私の心の声)
ところが!お母さんが
「他の子も一緒にやる事なんだから、やりたい人が一生懸命やればいいのよ。
あんたは怒られない程度に適当にしてればいいの。
みんなでしか評価されないなら一人だけ一生懸命やる方が損じゃないの。」
と、答えていました。
お子さんは「だよねぇ」と。
わたしはしばし絶句でしたが…。
そしてこれを聞いて、そうか~「適当でいい」って意識は
こうやって大人が植え付けていくもんなんだなぁ、
そして、それを言ってる大人がそうなんだなぁ、って思った次第。
世の中、いつからそうなっちゃったんでしょうか?
昔は皆で協力し合ったりするのが当たり前だったのに。
いつから、自分だけやったら損だ、って話になったんだ??
不思議で仕方ない。
確かにできる人、出来ない人はいるから差は出て来るけど、
だから協力することが大切なんじゃないのかな~。
それが損することになっていようとは…。
ああ、だから、皆、なにも自分でやらないんだねぇ。
出来るだけ、人がやるのを待っているわけか。。。
だから自分で考えることも出来ないんだなぁ、
だから何事も最後まで出来ない若者が多いのだなぁ。
しかも、その人々を導く大人がそうなんだなぁ。。。。
そんな思いが胸の中に広がりました。
なんでだろう?なんで、そんな自己中??
なぜ、大切に生きられないのだろうか?
若いから仕方ないことなのかな?
世知辛い世の中だから、したたかにならなきゃいけないのか?
・・・・・・・・・・・・
そんなことを考えていたら、モモの事を思い出しました。
皆さんはミヒャエル・エンデの「モモと時間泥棒」を読んだことありますか?
モモはこんなお話です。
***********************************
とある街に現れた「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たち(時間泥棒)によって
人々から時間が盗まれてしまい、皆の心から余裕が消えてしまう。
しかし貧しくとも友人の話に耳を傾け、
その人自身をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ少女モモが、
冒険のなかで奪われた時間を取り戻すというお話。
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この中に時間とは何かを語る部分があります。
「とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。
すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、
そのことを考えてみる人はほとんどいません。
たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、
それをいっこうにふしぎとも思わないのです。
この秘密とは――それは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、
はかってみたところであまり意味はありません。
というのは、だれでも知っているとおり、
その時間にどんなことがあったかによって、
わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、
ほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。
そして人のいのちは心を住みかとしているからです。」
時間とは生きるということ。
いのちは生きている私の心を住み家としている。
お話の中で、モモはカシオペイアと言う亀に導かれて
時間をつかさどるマイスター・ホラに出会います。
ホラはモモに時間が何かを教えてくれて、
自分の心の中にある時間の花をも見せてくれるのです。
マイスター・ホラがこういいます。
「人間はそれぞれ自分の時間を持っていて、
本当に自分のものである間だけ、生きた時間でいられるのだよ。
自分の時間をどうするのかは自分自身で決めなければならない」
自分のものである時だけ、生きている時間。
ちなみに時間泥棒たちが盗んでいるのは死んだ時間。
時間は人から離れると死んでしまうのですが
いのちを失うその瞬間まで、何とかしてでも、
元の持ち主のところに必死に帰ろうとするのです。
時間をどうするか決めるのが自分自身であるならば
そんな持ち主思いの時間を殺しているのは、他でもない私という事。
だって、自分のココロが住み家なのだから。
突然ですが、私はこの頃、家が貧しくて良かったなぁと思うんですよ。
そりゃ、もちろん、今だって、ものすごい苦労してるし、
良かったなんて言ったら兄弟にはおこられそうですけどね(^_^;)
でも、そう思うんです。
そんでもって、俳優になって、あれこれ苦労してきてよかったなーって。
相方さんとか、ココロが繊細な人たちと暮らしてきてよかったなーって。
おかげでね、時間やものを大事にする事とか
大切なことを本当にたましい深く学べたと思うのです。
貧しさは工夫や作り出す力、想像力を与えてくれたし、
何事も自分が気持ちを動かしてこそ、という事も
自分自身が考える事で見つけることが出来ました。
私は多くのマイスター・ホラに囲まれていた気がするんですよね。
今の時代は恵まれすぎて、自分で考える事すら難しいのかもしれませんね。
そういう中で生きることは、それはそれで大変なのかもしれません。
でも、だからこそ、時間が何かを知って、
大切に丁寧に生きてほしいと思います。
多分それは、自分を大切に、そして周りも大切にすることだから。
丁寧と言う言葉は、独りよがりでは完成しない気がします。
日ごろの暮らしを心を使って、最後まできちんと行う事。
それが丁寧な暮らしなのではないかなと思う今日この頃です。
我が家の若き人、外の若き人にも、他力本願になりがちのわれら大人にも
モモのココロが宿りますように。