三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

ゴルフ筋肉痛&まさかの目眩

2015年08月11日 06時36分13秒 | Weblog
きのうはあるゴルフの会合でした。
わたしは付き合い程度で、大体年に3~4回程度。
まったく練習もしませんので、まぁなんとかついていける程度。
そういうことなので、すぐに筋肉痛などを発症します(泣)。
暑い中、その上練習不足での筋肉痛、という本日であります。自業自得。
まことにお恥ずかしい次第であります。
なんですが、きのうは暑さに負けてなのか、
ちょっと目眩を感じていて、フラフラもしておりました。
朝は家でしっかり食べて出たのですが、
昼食はゴルフが終わってお風呂に入ってから、軽食程度。
で、そこからコンペルームでのにぎやかな団欒。
考えてみると、ほとんど栄養補給のないままでの
運動後の過ごし方だった次第。
しかし、主観的にはそうは考えが及ばず、
どうもアタマがクラクラするなぁ、なんか、おかしい。
というように、不安がもたげていました。
疲れきっていたので、帰ってからもそのままベッドに。
5時頃に帰って来てから夜8時過ぎまで仮眠。
で、カミさんが帰ってきて心配してくれて
遅めの晩ご飯を食べたら、すっかり元気回復。
こういう当たり前のことに気がつかない方が、あまりにうかつ。
で、サロンパスを貼りまくって本格的に爆睡して
ようやくブログを書けるまでに(笑)、回復して参りました。
本当は、もうすこししっかりしたテーマで書くべきでありますが、
無理せず、日記風の内容でアップ致します。
あすからは、もう少し中身のある文章を心がけますので
本日はこれにて(笑)、ではでは・・・。





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高田屋嘉兵衛さんと日ロ緊張緩和外交

2015年08月10日 05時47分25秒 | Weblog
なんか愛嬌を感じさせる肖像画に描かれた高田屋嘉兵衛さん。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」に素描が描かれた北方交易の成功者です。
1796年28歳の時に、それまで船頭として業界経験を積んだ後、
独立起業して資金を集め、独自に北前船を仕立てて航海を成功させ
事業家としてスタートを切った。以来、順調に事業を拡大させていた。
かれが活躍していた時代は、まさに日ロ関係の緊張時期と符合する。

きのうまで紹介した津軽藩の斜里での越冬大量死は1807年。
この前後には、たくさんのロシア船による北海道周辺での
騒擾事件が頻発しています。
まさに日本の安全保障がきびしく脅かされる事態が起こっていた。
こういった緊張の時期は同時に幕府による蝦夷地直轄時期でもあり
伊能忠敬や間宮林蔵などの活躍時期でもあった。
近代的測量術で正確な地図を残し日本史に名を残す伊能忠敬さんは、
自分一代で養子に入った家の経済を繁栄させてから
それを50歳になってから引退し、そこから測量術を学び
さらに自費で北海道の測量を行ったのだそうです。
そのようにまでかれを突き動かしたものとは、国の危機を
ただしく受け止めて、いまなにが必要かと考え
ロシアとの緊張が高まっていた国土の北辺、蝦夷地の正確な地図を
早急に作成しなければという、民族的使命感だったのでしょう。
多くの市井の日本人が、国の安全保障のために
自分の意志で立ち上がっていた時代だったのだと思う。
日本にとって北海道という地域は、単なる一地方ではなく
なにか、近代国家樹立のための象徴性を持った地域だったのだと思う。
そうした先人の思いは、深く受け止めていかなければならない。

ちょっと横道に逸れたけれど、
こういった日本国家の北辺、領土未確定な地域で、
日本とロシアの間で強い緊張状態がある中で、
1812年、高田屋嘉兵衛さんは、国後島沖でロシアに拿捕連行される。
司馬遼太郎さんの小説ではかれはその時、
自分一個で日ロ外交を成功させたいと考えて行動したとされている。
度重なる日ロの摩擦の結果、松前で獄に入っていたロシア軍人、
ゴローニンの釈放交渉を、自ら拿捕されたことを奇貨として
自分で外交交渉まで一民間人ではあるけれど、意志したと。
確かにかれは幕府の御用も受けている立場もあるので、
まったくの門外漢とはいいきれないけれど、
事実としては、この交渉が成功したことで、日ロ関係には進展が見られ、
緊張の緩和がもたらされた。
こうした日本人のふつうの安全保障感覚が大いに機能して、
今日のこの国土領域の状況が生成されてきていることを
わたしたちは、しっかりと認識しておくべきではないのかと思います。
いまの時代の、「憲法9条」で平和が維持できるという考えと似たように
江戸の時代も、自ら鎖国し、外国とは交渉しない、
国内平和主義でやり過ごしていきたいという事なかれ主義が
主流だったのと思う。しかし、現実はそうは甘いわけはない。
このような多くの民間人も、危機を正しく認識して行動していた
そういう歴史の上に、いまの平和もあるのだと思う次第です。

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北海道防衛にかけた民族的な思い

2015年08月09日 07時46分55秒 | Weblog
きのう、幕末に北海道オホーツク斜里での海岸線防備に配置された
津軽藩の越冬防備が、1発の銃弾を放つこともなく
無惨に寒冷気候に敗北して、実に28%という越冬生存率だった
事件について書きました。
この事件、わたし的にはすごく重たく受け止め続けていた事件です。
司馬遼太郎さんの紀行文で初めて知ってから
ずっと北海道と日本の関わり方の基本にある事件だと思い続けていました。

しかし、書いてみて、
このいかにも犬死にのような惨たらしい死も、
日本人の北海道防衛という大きな戦いの中の1つなのではないかと
そんなふうに思えるようになって来ました。
江戸幕府は、この事件の存在を隠し続けたようですが、
それは、対外的に自国の弱点をさらけ出すことになると考えたのかも知れません。
司馬遼太郎さんは、そのままストレートに
寒冷な気候に対する日本家屋の鈍感さ、
科学的姿勢の欠如に、その本質を見たのだろうと思います。
わたしもその点はまったくその通りだと思いますが、
しかし一方で、そのような遅れた日本家屋の性能的劣悪さは
南下膨張を続けるロシア側からすると、
冬期間の大きな日本の弱点として明確に戦略に組み込まれるに違いない、
そんな危機意識があったに相違ないのだと思います。
この国家的屈辱経験から、その後継国家である明治国家が
必死に北米・アメリカの進化した住宅性能を取り入れようという
国家意志に反映されていったのではないか。
そして、さらに北海道開拓使から北海道庁に至る支配機構が
永続的な意志として、住宅性能向上を持ち続けていることに
つながっているように思えるようになったのです。
そういうひとつの起点として、この幕末の津軽藩の惨事は
重大な意味を持ち続けてきたと思えるのです。
国防という重大なテーマがあり、
その上で植民政策の大きな条件整備として、
住宅への、質的な向上努力が必須となっていった。
そんなことを、考え続けております。
いずれにせよ、無惨に死んだ、津軽藩の先人たちに
深く、リスペクトの思いを持つものであります。

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江戸末期北辺国防、津軽藩の悲劇

2015年08月08日 07時47分11秒 | Weblog
戦後70年の首相の声明がアジア近隣諸国から注目されている。
その原案とも言うべき、答申案が首相に提出されたという。
そこには、幕末・明治から戦前に至る国際情勢も触れられているそうです。
この時期は、まことに苛烈な欧米列強による植民地獲得競争の時代であり、
明治の開国前後、いま、わたしが住んでいる北海道は
ロシアに併合される可能性も非常に高い地域と、少なくとも日本側では
そういった認識が、危機意識として高まっていた。
現にいまも、北方領土はロシアによる実効支配という現実がある。

幕末、こうしたロシアによる膨張政策の最前線として
江戸幕府は、諸藩に蝦夷地防備の命令を発した。
日本海側地域や、太平洋側地域は、
松前藩支配の時代から、海岸地域に「場所」という
漁業権益領域が設定されて、日本の実効的支配が密に点在していたけれど、
オホーツク海側は、もっとも国防的に弱い地域だった。
1807年に幕府は、それまで「宗谷」警備に配属されていた津軽藩に対して
オホーツク海側の「斜里」場所への転身を命じた。
津軽藩からは百人が派遣されたという。
現地に到着したのは、7月29日。これは旧暦なので、いまでいえば、
9月1日に相当する時期だったようです。
到着後、すぐに冬になり、想像を絶する寒さに見舞われた。
Wikipediaで「過去の気温変化」と検索すると、
以下のような推定グラフがあった。



もちろん、観測データはないので、
さまざまな手法を使った推定でしょうが、江戸期を通じて
世界的にも寒冷気候にあたっているようです。
1800年代初期はいったん大きく下がっている様子もあり、
この年、1807年の冬は相当に厳しい寒冷が
想像以上に早くやってきたものかも知れない。
たぶん、藩士たちはロシアがすぐにでも上陸作戦を展開するかもと
強い緊張感を持って現地に赴任したに違いない。
かれらは数軒の木造家屋に宿営することになったが、
その家屋は、寒冷に対して無防備そのものの小屋がけだった。
秋がないままの急な冬の到来で、食料の確保も十分ではなかったのか、
寒冷な中で、野菜不足による「壊血病」が蔓延した。
壊血病とは出血性の障害が体内の各器官で生じる病気。
ビタミンCの欠乏によって生じる。
ビタミンCは体内のタンパク質を構成するアミノ酸の1つである
ヒドロキシプロリンの合成に必須であるため、これが欠乏すると
組織間をつなぐコラーゲンや象牙質、骨の間充組織の
生成と保持に障害を受ける。
これがさらに血管等への損傷につながることが原因である。

ロシアによる銃弾以上の恐怖である「無断熱・栄養不足」が
かれらに容赦なく襲いかかった。
翌年の春になるまでに100人の内、徒歩で宗谷に向かって
消息を絶ってしまったものも含めて、実に72人が命を落としたのだという。
実に生存率、28%。
藩士・斉藤勝利が「松前詰合一条」という書物を記録として残した。
しかし、幕府はこうした事実を公開せず、
また、原因の究明も行われなかったのだという。
「松前詰合一条」を戦後、東大前の古書店で北海道の学者さんが、
入手して、はじめてこういう事件が明るみに出た。
この事件、当時の情勢も含めて、
まことに深く迫ってくるものがあると思っている次第です。





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アイスモナカ大戦争

2015年08月07日 06時08分27秒 | Weblog
きのうのブログは、久しぶりに状況・政治ネタになりました。
いろいろなご意見の方が書き込みされてくるので
お答えしている内に、ずいぶんFacebook上でやり取りになっていました。
それぞれの趣旨をお互いに参考にしながら、日本の安全保障の問題、
論議が高まっていって欲しいものだと念願しています。
くれぐれも罵りあうようなことにはならないように、冷静に考えたいと思います。

さて、クールダウンであります(笑)。
ことしの夏、わたしのマイブームはアイスモナカであります。
北海道でも気温・湿度とも上昇してきて
ここんところは、毎日1コは、モナカを食しております。
かならず1コと決めています。
どうしてももっと食べたくなるのですが、
必死で自分にリミッターを発動させております(笑)。
で、何十年ぶりに食べてみて、
それぞれの企業によって、相当違いが出ている。
いっぺんに食べ比べてみたい気持ちを必死になだめて、
毎日1コずつ、評点をアタマのなかに整理してきております。
各社とも工夫・味付けにしのぎを削っているのですが、
わたしが感心したヤツが写真の森永製。
モナカというヤツは、中身のアイスクリームの旨みはもちろんですが、
冷涼感に大きく関係するのは、「ぱりぱり」感だと
見定めておいしさを追求している。
写真のように、アイスの中にチョコを埋め込んで、
いかにも、パリパリとした口当たりを演出している。
今のところ、食べ比べている中で、こういう仕掛はこれだけ。
そしてもうひとつは、包んでいる皮ですね。
持ち応えも関係しますが、この皮の食感・旨みも
アイスモナカの最高の醍醐味であるかも知れません。
森永製は、この各ポイントで研究開発努力の姿勢が
わたし的には、一番感心させられております。
この他にも、赤肉メロン味や、あずき味など、まさに垂涎です。
もうひとつ、「食後感」というのも大きいポイント。
アイスクリームって、食べた後、甘味がいやらしく舌に残ったりする。
これがいやで、飲み物で流すというような経験が多かった。
この点でも、最近のヤツは研究開発が進んでいるように思います。
食べ比べていて、いまのところ、そういう強い欲求は感じません。

さて、きょうは、お昼の後にするかな、それとも
夕ご飯のデザートにしようか、と、ワクワク想像しています。
チョー楽しい夏の日々であります(笑)。




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朝日と産経の「対話」気運

2015年08月06日 05時41分49秒 | Weblog
朝日新聞の「誤報」問題・記事取り消しから約1年が経過した。
この問題をずっと追求して、朝日新聞に誤報を認めさせ、社長退陣という
状況をリードしてきた産経新聞の阿比留記者による、
元朝日新聞記者でこの件の当事者である植村元記者への
産経新聞として初めてのインタビューが行われ、
現在、WEBや紙面で発表されています。
インタビュー終了後の阿比留記者のFacebookでは、
植村元記者の家族への嫌がらせ行為に対して、
そうした行為を止めるよう、厳重な注意喚起が行われていた。
植村元記者の言論活動に対して、批判を加え論難するのは
これは大いにあるべき言論の自由だけれど、
行為主体者ではない家族に対して、嫌がらせ的な行為を働くのは、
弁解の余地なく不当だと思います。
こうした注意喚起をしっかり発言するというのは、言論人として
言論空間での批判・反批判を実りあるものとしていくためにも
絶対に、怠ってはならない部分だと共感を持ちました。
その上で、産経新聞上でインタビューの記事が掲載されている。
「産経も当初、記事で間違っていましたよね」という部分など、
かなり率直なやりとりが交わされていて、これは国民の冷静な
判断にとって、きわめて有意義な記事だと思って読んでおります。

ひるがえって朝日新聞と毎日新聞その他、地方新聞の一部では
安保法制論議について、冷静さに欠けた誌面づくりが続いている。
世論調査で4割近いといわれる賛成の立場の人間など、
まるでいないかのごときで、場合によっては非難の対象になっている。
むしろ、メディアによる安保法制反対の扇動という状況。
Twitterで反対派への疑問をつぶやいた芸能人が「炎上」したとか。
先日の毎日新聞の「経済的徴兵制」というメルマガトップ記事には、
さすがにギョッとさせられたりもしました。
なんでも、経済の厳しい状況の中、若者の仕事が少なくて
「やむなく」自衛隊に入らざるを得ない状況がある。これは、
経済的な「格差」から導き出される事実上の「徴兵制だ」という。
こんな荒唐無稽な発言をセンセーショナルにトップ記事にしていた。
そもそも国の安保論議では、政権として脅威を具体的に説明することは
周辺国と無用の外交問題に発展する可能性があることが自明であり、
そういう状況で政権側が詳述しにくいことをいいことに
さも現政権が「望んで戦争したがっている」など、
常軌を逸した暴論で、冷静な声をかき消そうとしている。
法の字句通り、戦争を抑止するための自衛の現代最適化が
この法制の本質以上でも以下でもないのではないか。
この間の安保法制論議で論議になっている点は2つだと思う。
1つは、集団的自衛権の行使を容認した憲法解釈の是非について。
2つめは、激変してきた日本の周辺環境についての対処法。
1つめについては、字句通り憲法を「学問的に」みる憲法学者とは、
現代語を「正しい、正しくない」と振り分ける国語学者みたいなもので、
かれらには、現実の国際情勢のなかでの判断はしようがない。
他国の軍事状況の進展は、かれらの研究領域には発想自体がない。
これは優れて、政治が論議するしかない問題だと思う。
2つめの周辺国家との緊張関係について、各新聞社は誌面を通して、
冷静に国民への判断材料を提供すべきだと思う。
仮想敵側は攻める側であり、防衛側の想定を超えた作戦を普通は考える。
であれば、想定のすべてをあきらかにすることは
いま日本の安全について責任を持っている政府の側としては
きわめて難しいだろうと思う。
であれば、メディアでもこうしたテーマで国民論議を提供すべきだ。
安保上のこれこれこういう事態のとき、
具体的にわれわれ日本国民としてはどう判断すべきか、
第4権力とすら言われ、自由であるメディアが考えるべきだと思う。
「憲法を守っていれば、きっと周辺国家の軍隊は攻めてこない」と
思考停止して、嬰児のように駄々をこねるのではなく、
どうすれば日本の安全保障が担保されるのか、具体論を考えて欲しい。

こうした最近の言論環境の中で、
植村元記者と産経が、きちんと紙面で対話しようとしていることは
評価してもいいことだと思います。
朝日と産経という2つのメディアが、相互にリスペクトを持ちつつ、
もちろん、机の下では相当の小突き合い(笑)があっても、
きちんと論議することが、日本国民にとってきわめて有意義だと思います。


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夏休みの子どもたちと紙芝居

2015年08月05日 05時30分24秒 | Weblog


毎日のように早朝の散歩を続けていて、
北海道神宮神前広場では、ラジオ体操が行われています。
通常期間は比較的高齢の方たちが中心なんですが
子どもたちが夏休みに入って、真ん中に元気よく参加している。
わたしは、体操時間はパスして散歩するのですが、
終わって帰りに再度、広場周辺に来てみると、
毎朝、子どもたちに元気に紙芝居を見せ聞かせている方がいます。
子どもたちって、なんでも正直なので、
やっぱり面白いから聞いてくれているのだと思います。
まったくのボランティアで続けていると言うこと。
お題は、大体日本昔話のようなお話しで、
それこそ誰が聞いても楽しいような、そんなお話しです。
まぁ、市原悦子さんの「日本昔話」シリーズのようなのを
紙芝居の実演で、朗々と読み聞かせていらっしゃる。
毎日、その様子を見ていると、こっちまで心があたたかくなってくるような
そんな気持ちで眺めさせていただいています。

こういうの、いろいろな意味で素晴らしいと思います。
まず、子どもたちに心を込めて、
民族的な心情のありかを、人間の肉声で伝えていくということ。
どうしてもどぎつい表現で、笑いや興味を引こうとする
テレビメディアの商業主義とは、まったく違う、
それこそ人間的なコミュニケーションが成立している。
想像力が、北海道神宮境内の杉木立のなかに広がっていく。
場の力もあって、子どもたちにはいかにも夏休みを実感できる。
そして読み伝えていく高齢者の側でも、
毎日、子どもたちの元気そうな顔と毎朝出会えるというのは、
無上の元気を受け止められる行為。
第一、大きな声を出してお話しすることは、健康増進につながる。
また、大きな生き甲斐にもなっていく。
きのう、読み聞かせしている女性とちょっとお話しして
「素晴らしいですね」とお伝えしました。
他の方から、こどもたちにお菓子プレゼントなども寄せられたそうですが、
「そういうのは、教育上、どうなのかと」というご意見。
まったく同感ですね。
子どもたちと高齢者のコミュニケーション、
このようなかたちで作られていくことには、大きな可能性もありそう。
石器時代から縄文という時代が成立したことの画期的な意味として、
常に体力的な敏捷性が極限的に要求されて、人間の加齢は
そのまま社会的不適合であった狩猟生活だけでなく、
縄文土器の発明によって、食生活が大きく変革されて
海の幸、山の幸を定住して採集享受できるようになったことで、
人間の寿命が飛躍的に長くなった。
高齢者の生きてきた「知恵」が次世代に受け継がれていくようになった。
そういう人間の交流が保障された社会が実現した、とされるそうです。
そんな意味からも、現代に於いて実現できた高齢化社会が
さらに人間の可能性を高めていくことができるとすれば、
こういった小さな交流、コミュニケーションこそが、
本当の意味で、きわめて大きな部分なのではないかと思います。


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iPhoneカメラの楽しみ

2015年08月04日 05時32分17秒 | Weblog


いま、アップル社の一番の稼ぎ頭は、圧倒的にiPhoneだそうです。
しばらくの間、コンピュータデバイスの王座は揺るぎそうもありません。
わたしどもは、DTPという仕事上のやむなき選択以来、
ずっとコンピュータはMacを使ってきましたが、
パソコンではWindowsが主流であり続けてきたけれど、
多デバイス時代になって来て、スマホという新市場で、
Windowsはまったく失敗してしまって、完全にAppleとMicrosoftは、
その立場が入れ替わってしまったと言えるでしょう。

わたしたち年代では、パソコンがデバイスの王道ではありますが、
そういったなかでも、iPhoneが市場導入されてからは、
Macとの相性もいいので、スタッフのスマホは全部、iPhoneにしました。
こういう変化は、ここ数年のことであるのに、
やはり毎日触れ続けることから、
印象・感覚としては、もう何年もこうした環境で生きている気がします。
人間、環境を支配されるというのは、すごいことだと思います。
わたしの場合、つねにブログの更新を意識しているので、
日常、どんなときにも持ち歩いているiPhoneの機能の中で、
「写真カメラ」の機能が、きわめて大きいと思っています。
WEBアクセスも、電話ももちろんだけれど、
常に持ち運べてカメラになる、それを通信で飛ばせるというのは、
やっぱりハマってしまう機能性の良さだと思います。
そういうカメラ機能ですが、やはり次に求めたいのは品質の向上。
きちんと「撮影する」という目的が決まっているときには、
1眼レフ・Lumixを持って行くけれど、
でも、普通は被写体は、思わぬ瞬間にやってくる。
その時突然、カメラが欲しくなるというもの。
なので、iPhoneカメラがもっと使い勝手が良くなったら、と思っていました。
そうしたら、アプリで機能向上を図れるのがあるということ。
写真のアプリなんですが、さっそく使い始めております。
上の写真は、洛中洛外図・舟木本の東京国立博物館図録からの接写。
露出やフォーカスが、直感的に操作出来て、
なんか、たのしく撮影できました。
いいかも、であります。Camera+というアプリ、360円也。
散歩などの外出時、とっさのときに接写でいい画質の写真を、
というときに、役立ってくれそうであります。
なんか、完全に宣伝しているみたいですが、お金はもらっておりませんし(笑)、
そういうことですので、責任を取ることももちろんできませんが、
これから大いに楽しんでみたいなと思っております。
まぁしかし、アップルも、
鳴り物入りで市場導入したアップルウォッチもそうはヒットせず、
スマホの次のデバイス、あるいはコンピュータが向かう先は、
どんなものになっていくのか、まだ不透明だと思いますね。

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明治革命政権による札幌での「御用火事」

2015年08月03日 05時57分50秒 | Weblog
北海道という地方自治体は、
ほかの地方自治体と大きく違う出自・経緯を持っている。
それは、江戸幕府を陰謀と民衆扇動などで打倒した薩長土肥による
「革命政権」の中枢が、その成立に大きく関わっている点。
他地域は、藩による支配が基盤的にあって、それなりの支配についての
民への「配慮」があったように思われるけれど、北海道は
ナマな、武人たちによる暴力的な開発支配が貫徹されていた。
明治の革命動乱は、ロシアなど列強による植民地膨張政策に対する
危機感をバネとした各藩の青年士族による革命独裁政権として、
目的に対して武断的な、まことに荒っぽい政策を実行した。
かれらにとっては、まずとにかく北海道に多数の日本人移住者を増やすことが
イコール、国防的にきわめて肝要な目的であり、
そのためには手段の是非はそれほど問題とはされなかった。
というよりも、新開地・北海道での施策には民主主義や、
人権云々を尊重するような考え方は存在しなかったといえるのだろう。
いわゆる「明治の元勲」とされるかれらの荒っぽさは、
まことに度肝を抜かれることも多い。
写真で上げた「岩村通俊」という人物も、土佐藩士として
明治戊辰戦争を官軍として戦った人物。
その論功行賞であるのか、その後、出世街道をひた走る。
そして初代北海道庁長官となった。



札幌に定住者を増やそうと、官許の遊郭「ススキノ」を作らせたりして
腰の落ち着かない労働者をこの地に住まわせることに腐心したりした。
こういう部分にも、江戸幕府による遊郭制度に似た武断的性格がみえる。
そういうなかで、「家作料貸付金制度」という
住宅建設のための一種の公的融資制度を作って
移住してきた妻帯者に対して多額の資金を貸し付けたが、
北海道を有利な出稼ぎの場としか考えない移住者たちは、
いつまで経っても簡易な茅葺き屋根の「仮設」住宅しか建てない。
かれら革命政権側にしてみると、民どもの小ずるさが許せなかったのだろう。
なんと「御用」の旗を押し立てて、そういう茅葺き小屋に放火したのだ。
一方で、そういう火事を消火させる火消しの制度も作っていた。
「マッチポンプ」そのままと恐れ入らざるを得ない。
警察組織自体もかれらが持っているワケで、
まぁ、まことに革命政権の暴力的な支配が行われていたと思う。
こうした放火を肯定する気は毛頭ないけれど、
かれらにとっては、恒久的に北海道で生活していくことを強制したいわけで
住宅建設と言うことについて、他地域とはまったく違う
国防的な切羽詰まった暴力的なまでの思いがあった、その傍証と言える。
こうした北海道を舞台にした、明治革命政権中枢の
武人為政者の北海道住宅への思いは、まるでDNA的なものとして、
今日にまで受け継がれてきたものがあるのではないかと思っています。
もちろん、こんな荒っぽい暴力性はなくなるけれど、
しかし、住宅はしっかりしたものを建てさせたいという強い希求性は残った。
他の自治体では、基本的に住とは民の領域のことであり、
いくら住宅政策と言ってもその腰は引けているけれど、
はるかな時間を経て、民主国家の地方自治体となった今日、
それでもやはり北海道の目指す地域住宅政策には、
一貫した「よき住宅」とはかくあるべしという強い思いがあると思う。
しかしまぁ、荒っぽい連中が為政者になっていたものだと
その暴力的体質に、驚かされますね・・・。




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北海道神宮・撒下塩 めでたくゲット

2015年08月02日 05時46分35秒 | Weblog
きのうは8月1日。で、予想通り、
ようやく北海道札幌もほかの地域の仲間入りで、好天と気温上昇。
夏らしい夏が、ことしの8月はやってきそうな気が致します。
最近沖縄にいる娘の職場で、厄落としでもした方がいいような
そんな出来事の知らせがありました。
なんとなく気になっていたところ、きのう、朝の北海道神宮参拝時に
ふとヨコを見たら、なにやら目に付くものがあって、
人々がなにやら、言いさざめいている。
「あら、まだ残っていた」「ありがたいわ」・・・。
写真のものなんですが、どうやら、
毎月、神前でお祈りを捧げる際に神さまに献上する清めの塩が、
月初めに「お下がり」として一般に下賜されるのだそうです。
やはり神さまに一度捧げられたものと言うことで、
神威がそこに宿っているという霊験は期待したくなる。
わたし数年前から朝の参拝をしていますが、なぜか、
毎月1日の、それも早い時間には巡り合わせていなかったようです。
きのうは行った時間は午前5時台だったので、まだ残っていた。
神さまの授かり物なので、別に料金は決まってはいないようですが、
三宝が用意されていて、いくたりかの「お賽銭」も上げられている。
これは幸いと、小銭を奉納して、ありがたく頂戴してきました。
どうやら、娘のことを気遣った神さまが、たまたま巡り合わせてくれた。
娘に郵送しておくって、お守りにでもさせようと思います。



日本の「商売」の起源について網野善彦さんの著作などを読むと
こういう神仏が文化性として関与していることが知れます。
一度、神に捧げられたものには、「無主」性が生じて、
「交易」することが可能になる、というかたちで、
交易というものの仲介者として宗教が心理的手続きに関わってきた。
ものに「利息」や「利益」を付加して「売る」ことに
その心理的な罪悪感を解消させるのに、神仏・宗教性が関与した。
他にも、仏教を学んだ僧が、国際貿易の際の仲介者として
計数管理や、コミュニケーションを司っていたとされています。
そんな説が強いのだと言うことだそうであります。

さて本日から、坊主が帰郷しております。
夫婦ふたりの生活に、また子どものいる暮らしが復活。
やっぱりなにくれと、誰かのために気遣いができるというのは
とても幸せなことなのだと、知らせてくれますね。
本日もまた、早起きして食事のしたくなどにも
精を出していきたいと思っております。楽しい主夫生活(笑)。






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