現代社会というのはどういう時代か、
ということについて、歴史学ではどのように見ているか、
網野善彦さんの著述を読んでいて、考えさせられました。
歴史学では、明治から戦前までと戦後の間に大きな断絶をとらえ、
そこで区切るというのが支配的な考え方なのだそうですが、
網野さんは、やはり明治以降を大きな区切りとして
日本社会は大きく転換したのであり、
現在はその歴史過程がたどってきている脈絡の中に
存在すると書かれています。
わたし自身は、いつも歴史的な事物を見ていて
生産物や生産手段の問題が大きいように思っています。
明治からの西洋社会の産業革命への志向というものは、
基本的に日本社会を規定している文明史的な転換だったのではないか。
それは、生産手段が人間それ自身を基盤とする社会から
工場生産型の社会に転換したことが、もっとも大きかったのではないかと
そんなふうに思っています。
そのことは、通り過ぎてしまっていることなので、
あまり実感しにくい部分でもあるのですが、
今日、わたしたちが、過去の事物から学ぶときに感じる
ある種の「見落とし」としても結果していると思うのです。
写真は、律令国家時代の下野国の「国分寺」の出土瓦。
瓦、というもの、現代ではごくありふれた材料になっているのですが、
それは、生産手段が規格大量生産になっているからであり、
今日社会の中ではあまりにもベーシックなプロセス生産物だという
わたしたちの見方の方が、歴史的には「錯覚」だからだと思うのです。
わたしたちの工場生産社会から見れば、
「モノ」としての希少性は、残念ながらあまり感じないのですが、
しかし、生産があくまでも人力的な社会だったときには
こうしたモノの生産は、希少性は高かったに違いないのです。
そもそも大量に作っても、流通手段が確保されてもいなかった。
したがって、こうした瓦は現地で人力で作られていた。
別に、「瓦屋」という専業者がいて、請け負っていた訳ではない。
この瓦は、税の収奪の一手段として
国のなかの各「郡」単位で成果物の貢納が義務づけられていた。
なので、各「郡」の生産物である印がしっかりと刻印されている。
各「郡」で色合いも、風合いも微妙に違いがあるのは、
その原材料である土が、それぞれ違っていたからなのでしょう。
貨幣によって税が換算されていく以前の時代には、
このような直接的人力生産物が、支配者と民衆との間で交換されていた。
どうしてもわれわれ現代人は、
この瓦を見て、そこまでの想像力を持ちにくくなっている。
そんなことを強く感じさせられている次第です。