三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

人力生産社会でのモノの価値

2012年11月30日 06時48分54秒 | Weblog


現代社会というのはどういう時代か、
ということについて、歴史学ではどのように見ているか、
網野善彦さんの著述を読んでいて、考えさせられました。
歴史学では、明治から戦前までと戦後の間に大きな断絶をとらえ、
そこで区切るというのが支配的な考え方なのだそうですが、
網野さんは、やはり明治以降を大きな区切りとして
日本社会は大きく転換したのであり、
現在はその歴史過程がたどってきている脈絡の中に
存在すると書かれています。
わたし自身は、いつも歴史的な事物を見ていて
生産物や生産手段の問題が大きいように思っています。
明治からの西洋社会の産業革命への志向というものは、
基本的に日本社会を規定している文明史的な転換だったのではないか。
それは、生産手段が人間それ自身を基盤とする社会から
工場生産型の社会に転換したことが、もっとも大きかったのではないかと
そんなふうに思っています。
そのことは、通り過ぎてしまっていることなので、
あまり実感しにくい部分でもあるのですが、
今日、わたしたちが、過去の事物から学ぶときに感じる
ある種の「見落とし」としても結果していると思うのです。

写真は、律令国家時代の下野国の「国分寺」の出土瓦。
瓦、というもの、現代ではごくありふれた材料になっているのですが、
それは、生産手段が規格大量生産になっているからであり、
今日社会の中ではあまりにもベーシックなプロセス生産物だという
わたしたちの見方の方が、歴史的には「錯覚」だからだと思うのです。
わたしたちの工場生産社会から見れば、
「モノ」としての希少性は、残念ながらあまり感じないのですが、
しかし、生産があくまでも人力的な社会だったときには
こうしたモノの生産は、希少性は高かったに違いないのです。
そもそも大量に作っても、流通手段が確保されてもいなかった。
したがって、こうした瓦は現地で人力で作られていた。
別に、「瓦屋」という専業者がいて、請け負っていた訳ではない。
この瓦は、税の収奪の一手段として
国のなかの各「郡」単位で成果物の貢納が義務づけられていた。
なので、各「郡」の生産物である印がしっかりと刻印されている。
各「郡」で色合いも、風合いも微妙に違いがあるのは、
その原材料である土が、それぞれ違っていたからなのでしょう。
貨幣によって税が換算されていく以前の時代には、
このような直接的人力生産物が、支配者と民衆との間で交換されていた。
どうしてもわれわれ現代人は、
この瓦を見て、そこまでの想像力を持ちにくくなっている。
そんなことを強く感じさせられている次第です。
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縦に長い日本列島実感

2012年11月29日 07時52分05秒 | Weblog



先週末からきのうまで、
関東北部や東北にいて、昨晩遅く札幌に帰還いたしました。
この時期の地域による気候の違いもたいへん大きいものがある。
仙台でも小雪が舞い飛ぶ冷たい風の強さでしたが、
札幌に帰還すると、千歳空港は一面白くお化粧していて
そこに街灯照明が映り込んで、ロマンチックな美しさを見せている。
冬の雪景色の美しさの中で、このような夕景・夜景の
光源の映り込みの幻想的な美、というものは大きいなと感動させられる。
寒くて辛い季節ではあるけれど、
そんな美しさに満ちた季節でもあるわけで、
ちょっと誇らしく感じられる部分もある。
しかし、室蘭地域では送電線が雪の重みで倒壊して停電だということ。
暖房器は、灯油にしろガスにしろ、電気を使わないものって
薪ストーブの一部くらいしかないので、
避難所に避難しなければならない(泣)っていう悲しい現実もあるわけですが。

一方、写真は、那須高原周辺の森の様子であります。
北関東のいちばん最北地域に
皇室の御料地が存在しているので、自然の景観が広大に保全されている。
気候条件的には太平洋岸型に近いので
冬場には晴天率がきわめて高い。
肌にはそこそこ冷たい風が吹いてくるけれど、
太陽からの輻射があたたかく降り注ぎ続けている。
空気は冷たいけれど、陽光に満ちたさざんかの似合うような冬です。
落葉広葉樹の広大な森は、すっかり葉を落としているけれど、
空気感は肌にもここちよく、北国の人間には陶然とするばかりであります。
「こんな冬もあるんだ」とうっとりとしてしまう。
自然が豊かに保持されて、全体として別荘地域のたたずまい。
まぁいつも東北道から通りすがるだけだったのですが、
はじめて下りてみて、その自然の中に身を置いてみると、
すばらしさの虜になってしまいました。
で、その後は仙台で過ごしておりましたが、
こちらは風の冷たさ、強さの中に雪も交じっていた。
聞いたら、仙台の初雪としてはこんなものだそうですが、
どうもこの冬は厳しい寒さがくるのではないかと思われます。
今回の出張ではダウンジャケットを重装備していましたが、
やはり転ばぬ先の杖で、大正解でした。
季節の変わり目、健康にはみなさんご注意ください。
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律令時代の「交通」

2012年11月28日 05時42分09秒 | Weblog


写真は、ジオラマ展示による
律令時代の「下野国」国分寺・国分尼寺と官道・東山道の配置説明。
ほぼ上が北という方位感覚になっています。
国衙という国の「政庁」施設はこの官道・東山道を左に行って
やや南に折れていく場所に置かれている。
律令による国家支配と同時に「鎮護国家」という政策が導入されたので
こうした国分寺・国分尼寺は、たぶん、国家の正統性の保証機能や
人民支配登録機能・戸籍の管理などを司っていたのではないか。
この官道・東山道は幅が12mで、その両脇には側溝も備えられていた。
そして発掘調査によって、
中央部にわずかに陥没した様子が見られたりもするのだという。
活発にひとびとが行き交う様子がわかる。
Wikipediaで調べてみると
~庸調の利用などは陸路かつ人力での中央への輸送が強制されていた。
これは、車・舟などを持てるのは有力な地方豪族に限定されるために
車舟による輸送を認めると納税に豪族の介入の余地を生むこと、
更に民衆に都を一種の舞台装置として見せることで
民衆に国家的な共同幻想を抱かせる演出を図ったとする見方がある~
ということだそうです。
轍の痕跡なども予想以上に見られると言うことなので、
牛馬によるクルマに乗せての物資輸送なども活発に行われていたそうです。
こんな情報も重ねて考えてみると
そもそもこの道路の開削自体から、
たぶん農閑期に、労働動員させて道を作らされ、
また、通常の農繁期にはコメ作りなどで田畑に縛り付けられ、さらに
その道を通って都まで、反物などを持って行かされるという
民衆の日常生活が素描されてくるように思われる。
そしてその上、この時代には大仏の建立に向けて黄金の採掘が国家的な命題で、
ついに百済王敬福とその一党グループの手によって
奥州で大量に生産されるようになっている。
その国家的収奪行為が、現地の先住民とのあつれきを生んだことはあきらかで、
蝦夷への征伐騒動に発展していったに違いなく、
この道路を、坂上田村麻呂の軍が北上しつつ、
沿道各地から軍兵の徴用も苛烈に行われたに違いない。
こういった一連の「政策」が、ひとびとの反感を醸成していって
歴史を突き動かしていく原動力になっていった。

そんなような想像力がムラムラと、沸き上がってきます(笑)。
人間の営みの痕跡というのは
まことに深く、いろいろなことを教え諭してくれるようだと思いますね。

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矮化銘木の床柱

2012年11月27日 05時43分27秒 | Weblog



写真は、先日の津軽探訪で発見したある旧家の茶屋水屋の床柱。
一見してその不思議さに目を奪われてしまった次第です。
建材は竹なのだと思うのですが、
成長の段階で、各節ごとに成長方向を逆側に矮化させて生育させた竹なのです。
まぁ手間の掛かることをしているのですが、
ある時期までの日本の建築にはこういう道楽が存在していた。
こういう種類の「数寄屋道楽」というようなことって、
日本人の感受性のどういった部分に由来するものなのか。
しかし、きのうはある建材商社のみなさんと情報交換していましたが、
こういった銘木って、現在は驚くほどニーズがないそうです。
北海道から始まった住宅の合理的な考え方が、
全国的に波及して行っているのか、
そもそも日本人は、こういった文化とは違う文化に移行したのか、
どう考えるべきなのでしょうか?

日本の建築文化って、
そのデザインの原初は東アジア的な世界の中に位置づけられてきた。
で、他国と比べて、やや奇に向かうようなデザイン性向はあったように思います。
数寄屋というような文化自体、
他国にはあまり見られない文化なのだと言うこと。
そしてその文化の中で、こういった銘木文化も存続基盤があったのでしょう。
こういうことに驚き、悦びあう文化がある階層だけにか、
それとも普遍的に存在していたのか。
わたしのような住宅の変化や流れを見ている者からすると、
たいへん興味深い領域だと思って見ております。
しかし、こんな変なかたちの銘木ですが、
それに差し掛けて棚とか繋げています。
デザイナーと作り手の間で、あるテーマに沿っての協同意志が見える。
一種の芸術表現と考えていたのかとも思える。
その生活文化の違いに、ある驚きを感じながら見入っておりました。
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しもつけ風土記の丘資料館にて

2012年11月26日 04時05分52秒 | Weblog


きのうは取材が予定調整つかず、やむなく休日となったので、
以前から念願の「北関東最大の縄文遺跡」を見学に宇都宮周辺へ。
久しぶりに「歴史好き」の探訪が出来た次第であります。
歴史取材調査ストックはだいぶ貯まりましたので、おいおい。
で、最後には宇都宮から南下して下野市の「しもつけ風土記の丘資料館」へ。
県立の施設ですが、クルマで行くと手前にラブホテルがあって、やや閉口。
ちょっと入りにくい立地でしたね(笑)。
まぁ、なんとか探し出して訪問。
で、常設展示の方を見ていたら、なにやら来訪者に解説されている方がいました。
どうも小耳に挟んでいるとすごい博識ぶりでびっくり。
なので、ずうずうしく近づいて聞き始めました。
「構いません、どうぞ」と言っていただけたので、興味津々お話しを拝聴。
縦横無尽にこの資料館の展示について語られている。
合間にお聞きしたところ、この資料館の前館長ということ。
退職後ではありますが、ボランティア的に解説されていたようなのです。
ですので、解説の内容はたいへん多岐にわたっていました。
そういうなかでも一番興味深かったのが、
「東山道」と、この下野国の政庁、国分寺・国分尼寺の配置に関するくだり。
展示の方は撮影OKということでしたので、
撮影させていただいた資料のひとつが写真のもの。
古代律令国家は、その基本単位である「国」、
この場合、「下野国」ですが、いくつかの「郡」に別れていた。
その郡を表記しているのですが、
それを貫くように「東山道」が通っている。
律令国家は、中国にその範を取ってまっすぐな「道」を造作した。
たいへんな「公共事業」だったと思うのですが、
たぶん、租税の中の「労役負担」で民衆を動員して作ったものなのでしょう。
先生のお話では、「古代の高速道路ですよ」ということ。
平坦地では実に幅が12mもあり、しかもきちんと
土木的に補強を施した基礎工事も行った「舗道」だったそうです。
そして一定間隔で「駅」も整えられて
国家が使用を承認する用務ではそれらの馬などを使って交通が可能だった。
そういう「駅長」層の家のなかから、
この地域出身の国家的指導者、慈覚大師・円仁さんも生まれているそうです。
そしてこの東山道に面して国の主要な施設が建築されていた。
下野国の政庁、国分寺・国分尼寺などですね。
こうした「公共事業」の労役は郡ごとに割り振られていたようで、
出土する建物の瓦には、各郡の名前が記載されていたそうです。
古代律令国家の日常的な支配の様子がいきいきと甦ってくる。
まじまじとこの地図を見入ってしまうようなお話しでした。
司馬遼太郎さんの書かれた文章でも、古代国家の交通のことはありましたが、
その下取材事項が、まことに肉薄するように理解できた次第。
そしてこうした「官道」を通って、
たとえば坂上田村麻呂などが、北上して蝦夷を侵略したのですね。
こうした陸路と、一方でより在来的な海運・水運が組み合わされて
ひとと情報は交通していたのですね。
たいへんわかりやすく理解できました、ありがとうございました。
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連続していますね、地震

2012年11月25日 05時46分50秒 | Weblog



きのうは連休の合間でしたが、
事前にスケジュールを立てていた関係から仙台へ移動。
なんですが、日程調整がつかないのでスタッフと打合せなどしていましたが、
突然、ぐらっときた。
速報では、ごく近い観測点の仙台市遠見塚で震度3だった。
前日にも比較的大きな地震があったので、連日ですね。
どうもここんところ、ふたたび東北地方、活発化している気がする。
大きな地震の前触れでなければいいのですが、
で、見たい建築もあるので、
関東まで脚を伸ばしてみようと考え、南下しましたが、
最近は日が短くなっているので、日のある内に投宿することにして、
福島県白河でホテルに入っていたら、午後6時前
今度は千葉県北部を震源とする、東京で震度4になった地震。
ちょうど部屋が14階と高かったので、
どうも揺れを大きく感じる。
もうちょっと南下していたら、もう少し大きな体感になったかも知れません。

しばらくは体感地震は経験していなかったので、
久しぶりにピリッとした緊張感であります。
あれだけの大地震があったあとなので、
まさかとは思うのですが、どうも大きな活動期に入っていることは間違いがない。
それと、千葉県北部を震源としているのに、
その千葉県では震度3くらいで、対岸側の東京が震度4っていうのは、
地盤による揺れの共振のようなことが起こったのでしょうか?
南関東というのは、豆腐のような地盤地域で
揺れには強い地域ではないと言われていますが、ちょっと不安ですね。

地震が怖くて何も出来ない、というわけには行かないけれど、
災害は忘れた頃にやってくると言うし、
まさかというタイミングでやってくる。
十分に注意を怠らないで生活していかなければなりませんね。
それにしても、地震は何度経験しても怖い。
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太宰治「斜陽館」

2012年11月24日 05時39分40秒 | Weblog



棟方志功が﨧森の生んだ天才画家であれば、
一方、太宰治も津軽が生んだ代表的な小説家。
かれの生家が「斜陽館」として保存されている。
宏壮な洋館として、まるで地域の「城館」のような雰囲気もある。
なぜこうした富貴が可能になったのか?
それは明治初年の「地租改正」によって、農民に金銭での租税負担が生じ、
同時に江戸期からの「田畑永代売買禁止令」が廃止されたことで、
寄生地主といわれる、小作人から利益を収奪する階層が生まれたことによる。
太宰の家も、そうした家だった。
そのような家系にありがちなのが、過度に自分を修飾する心理。



本来は油の行商によって稼いでいた資本を元手に、
農民から田畑を買いまくってきて、この国の制度に守られて
巨大な資産を形成したのだ。
たぶん、日本の巨大資本というのは、多かれ少なかれ、
こうした「制度的恩恵」から生まれ出てきたのに相違ない。
古くは荘園制度などにまでさかのぼるような貧富の差の拡大生成過程だと思う。
そうした階層は、不安の心理を抱えつつ、
その出自について正統性があるのだと主張することになりやすい。
この太宰の生家でも、目を剥くほどの仏壇が荘厳に鎮座していた。
太宰の作品というのは、遠くから眺めているに近いけれど(笑)
どうも拒否感を持つのは、こうした匂いを感じるからなのだ。
太宰の家は、このような経緯で富貴に成り、
「高額納税者」番付で青森県全体で12番目になって
「貴族院議員」の有資格者になっていく。
国家が、そうした階層に「貴族」のマントを提供までしていたわけだ。
しかし、日本の「文化」は常にこうした富貴を形成した階層において
華やかに展開してきたことも事実なのだ。
津島修治として生を受けた個人は、過剰な文化的環境を得て
太宰治という文化的なスターになっていったのだと思う。
残された建築は、そのような家系礼賛の残滓として
今日までその状況を伝え続けてくれている。
多くの太宰治さんのファンのみなさんとはちょっと違う印象で、
この家を、こんなふうに見続けておりました。
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弘前食事処「會」「もっぱら庵」

2012年11月23日 08時13分42秒 | Weblog



弘前にはいい食文化を感じさせる店がたいへん多い。
そばにも名店がたくさんあるのでしょうが、
わたしとしては、この「會」~かい~の特製そばが大好きであります。
具たくさんで、いろいろな食味が味わえて
しっかりとしたそばがすべてを受け止めて爽やかな食感に至る。
海老の天ぷらはそばとの相性バツグンの日本食の王道。
鰹節は、汁を吸ってとろみを演出してくれる。
意外にいいのが、かいわれ。
そこそこの辛みとシャキシャキした歯ごたえが
めんつゆとそばとの付け合わせにいい味を出している。
はじめて来たのはもう7~8年前だと思うのですが、
それ以来、ときどき弘前に来たら来ています。
今回は昼前に11時半ころに行ったのですが、
はやくもメイン駐車場は満杯で、サブも満杯。
やや離れている契約駐車場にクルマを止めてようやく入店できました。
土曜日だったので、店内は地元のみなさんの家族連れで満席。
すごい繁盛店になっておりました。



弘前では、もう一軒、今回面白い店を発見。
弘前城近くの「もっぱら庵」という店。
ホテル近くで「おいしいそば屋」さんを聞いて出掛けたのですが、
その店はお休み。
やむなく新規開拓していて、ふとたたずまいが気になった店がこれ。
「食事処」としか書かれていないので、
まぁ雰囲気的に和食系だろうと判断して入ってみました。
店内はカウンター席が7~8席でしょうか。
忙しそうだけれど、マジメそうで面白そうな店主さんと話して、
勧められるままに、お任せの食事を頼みました。
2000円のセットと言うことなのですが、
これがなかなかにいい。
前菜が、横長の皿に5~6品盛りつけられていて
そのどれもが、こだわっている食材と味付け。
で、いろいろと碗が出たり、皿が出たりして、
メーンにはたしか大豆から作ったというそばが出されました。
これがなかなか腰がいい風合いで、透明感のある味。
それで満腹していたら、
さらにそのうえ、シャケの入ったおにぎりに煎茶を掛けたお茶漬け。
どうもこれがウリのようで、こたえられない食感でした。
話していたら、翌日茶会の料理仕出しを依頼されているとか。
散策していたら、案の定、著名な茶室でご主人を再発見。
どうもご縁ができたように感じられました。
なかなかオススメのお店だと思います。
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戻ってきたモノトーン世界

2012年11月22日 07時03分47秒 | Weblog


棟方志功さんの言葉の残像が頭のなかに残っています。
﨧森の人というのは、その底にどこかあたたかみがある、
っていうような言葉から、同じ雪国の人間として、
ある共通項を感じて、北海道人として共感を抱いてしまうのです。
気候条件がきびしく冷涼になっていって、
そういう状況に追い込まれていけば、お互いに通じ合うものが生まれて
そのきびしさを、人間のペーソスでギャグにしてしまおうという
そんな心情が沸き起こって来るのだろうか。
たしかにそういう人間交歓の状況は、東京ではあまり生まれない。
たまに年に数回、雪が降ってスローダウンするしかない状況は生まれるけれど、
東京・関東の場合には巨大な社会資本が解決してしまうようなことがある。
先年、東名高速が一部区間で崖崩れで通行不能になったけれど、
たしか、丸1日か2日くらいに超スピードで通行可能な状況に復旧した。
こんな「公共投資」は、まず北国では考えられない。
北国・雪国では、日常化した自然の抵抗値の大きさが
人間社会に対して、それとの共生の思考を持たせる。
自然の猛威には立ち向かえないのだ、
おとなしくされるがままに落ち着いて、冷静に対応方法を考えるしかない。
そうなると、へんな「ゆとり」も生まれて、
同じ人間の営為をじっくり観察するようになってくる。
モノサシは自分自身の感受性なので、そこに「やさしさ」もこもってくる。
それが、北国・雪国の人間の「あたたかさ・ユーモア」の必然性なのではないか。
そんなような共感の実質が見いだされたように思いました。

ついに最近、札幌でも雪が降り始めています。
しかし雪は、外気温の低下から地表温度の低下を防ぐ断熱の働きをする。
そしてさらに雪は雪明かりという言葉があるように
少ない光源からの光を増幅して
白く反射して、底の部分での「明るさ」を雪国にもたらしてくれる。
これからまた5ヶ月間くらい、
こういう見慣れた世界の中で過ごしていくことになる。
そのことに、だんだん、感謝の念も持てるゆとりが出てきたのか。
棟方さんが見ていた﨧森と、この北海道ではまた、
少し違う部分があると思う。
とくに札幌で過ごしていると、やはり「都会性」という部分で違いが顕著。
これから、内語の世界で棟方さんと対話し始めていく気がしています。
すごい芸術家ですね、棟方志功さんって。
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棟方志功というひとがら

2012年11月21日 07時52分23秒 | Weblog



棟方志功さんは、﨧森を代表する芸術家として
あまりにも著名であり、その世界の中に存在するわれわれとしては
空気のように感じていて、意識はしない存在。
人に聞いたら、その「記念館」があると聞いて、訪問してみました。
絵や版画自体の素晴らしさは言うまでもありませんが、
その記念館で、DVDの公開がされていて
思わず見入ってしまっていました。
「彫る 棟方志功の世界」という映像作品であり、
あとで聞いたら、その作品自体が
文部省特別選定・ベルリン国際映画祭グランプリ(ゴールデンベアー賞)
・キネマ旬報ベストテン第1位・・日本紹介映画コンクール作品優秀賞
などの賞を総なめした作品になっている。
1975年製作 カラー38 分 (税込)21,000円
企画・制作・発行/株式会社毎日映画社
っていうものだった。

「わだばゴッホになる」という内語を抱いたまま、
画業に生きたそのひととなりが、映像作品いっぱいに叩き付けられている。
まるで主演・棟方志功の存在自体の表現作品だと思った。
透徹して画業を追求した生き方のすさまじさが
映像を作る人たちにも乗り移ったかのようだった。
21歳のときに画業を志すきっかけが、
津軽地方で初めて墜落した飛行機の現場を見に行くときに
あまりに多くの人並みで道を踏み外して泥田の中に落ち、
その瞬間に目に飛び込んできた野の花の美しさに
思わず我を忘れて、この美を表現したいと思ったという語りの下り。
よく意味不明である早口の津軽弁が、
明瞭な作家の息づかいを余すところなく表現している。
子どもたちの版画作品大会の選者として、
万を超す作品を、不自由な近眼の片目で次々と凝視し続けていく様は
まさに人間の迫力を感じさせてくれる。
そして豪放磊落な茶の飲み方には目を見張らされる。
かたちの緊張感に満ちた茶道の動作振る舞いと同じようなんだけど、
その振る舞い方の本質的な意味が直接伝わってくる。
茶碗をぐるぐると回すのは、
碗の底に堪らざるを得ない抹茶を最後まで完全に飲み尽くすために行う、
自然な営為、ふるまいなのだと伝えてくれる。
まさに天才のふるまいだから、説得力がある。
作品への万の解説よりも、この映像が語っているものの奥行きは深い。
感嘆させられました。
もう、棟方志功の世界から離れられなくなった。

しかし、38分の映像が21000円であります(汗)。
むむむ、確かにその価値は十分理解できる。
謹んで検討しております(笑)。

<写真はきのうも紹介の弘前城>
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