三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

蝦夷地総社・函館八幡宮、いいかも

2015年09月16日 05時50分41秒 | 古民家シリーズ


函館は、小さいときから好きだった街であります。
伯父が永く住んでいて、こどもができなかったことから、
姉であるわたしの母に、わたしを養子としてもらい受けたいと念願していた。
なんども言われ続けて、母も一度わたしに話したことがある。
わたしが頑強に「イヤだ、絶対に」と抵抗して沙汰止みになった。
伯父に申し訳ない気持ちもあったのか、
母はときどきわたしを連れて、函館に来ていた記憶がある。
そういう経緯であったか、前後はあるいは逆だったかも知れない。
見合いのようなかたちでわたしを伯父夫婦に会わせて、
その様子から、伯父が正式に「養子に・・・」と切りだしたのかも知れない。
まぁ、こういったケースは昔は多かったようだけれど、
いまとなっては、みんな亡くなっていて、確かめる術もない。
はるかな後年、母を連れて函館に来ていたりもした。
そんなことが記憶の底に沈殿しているのか、
不思議と函館のことが、好きになっている。

札幌が北海道の首府として開拓が進む前、
函館は、北海道の旧都であった歴史を持つ。
この函館八幡宮も、来歴を文安2年(1445年)、
亀田郡の領主であった河野政通が函館・元町に城を築く際、
城の鎮守として城域東南隅に八幡神を勧請したのに始まると伝えられる。
室町の世にまでさかのぼる来歴になる。
その直後にアイヌからの攻撃で河野氏が敗退したりしたそうで、
武神として八幡神が勧請されたというのも、さもありなんと思わせる。
そういえば、河野氏というのは、わが家の家系伝承にも名前が出てくる。
その後、寛政11年(1799年)東蝦夷を公議御料(幕府直轄領)とした
江戸幕府が社地に箱館奉行所を置くことになったため、
文化元年(1804年)、幕府の費用で会所町(現函館市元町北東部)に
社殿を造営して遷座、以後箱館奉行所は当宮を祈願所とし、
蝦夷地総社として崇敬した、とされている。
そういう意味合いでは、北海道神宮が造営された札幌に先んじて、
この地が北海道の中心であったというのは、歴史事実なのだろうと。
こういった来歴からか、外観風貌はまことに古格そのもの。
屋根のデザインが見るものを惹き付ける。
こういった趣味傾向は、北海道的なデザイン傾向ではなく、内地的。
北海道では積雪荷重を考えて、水平方向にはあんまり伸ばさないのが
一般的だと思うのですが、これでもかと水平が強調されている。



正面から見る破風も、やたらヨコに長い。
北海道はほかの日本の「◎◎国」という概念で言えば
6カ国くらいに相当する面積なので
この神社は、道南国一の宮というようにみなしてもいいでしょうね。
社格、雰囲気とも、ちょっと北海道離れしていて
そういう意味でも、いかにも函館らしくて
ちょっと好きなスポットになりました。



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明治の頃の風呂

2010年07月19日 05時24分49秒 | 古民家シリーズ



ユニットバスという設備は
開発の最初の頃は、狭小なホテルの部屋などの用途として
関東地域などで販売が開始されたようですね。
Wikipediaで見てみると、
現在につながるFRP製のユニットバスは、日本で開発された。1964年、東京オリンピックを控え、急ピッチで建設が進められていたホテルニューオータニで、内装工事を出来る限り省力化するために考案された[1][2]。主に開発に携わったのは日立化成工業(現:ハウステック)・東洋陶器(現:TOTO)の2社である。それまではバス・トイレの施工は1部屋につき職人数人と1ヶ月を要していたものが、運び込んで設置するだけで良いユニットバスを採用したことでわずか数時間に短縮されたという。
というように記載されています。
しかし、このユニットバスが一般木造住宅に導入されたのは
北海道が大変早かったと記憶しています。
それは、冬期間、銭湯に通うのが大変だったからなのか、
家の断熱気密性能が高まって、
家で風呂に入るという習慣が可能になったからなのか、
まぁいろいろなことが考えられるのですが、
とにかく、普及速度は速かったと思います。
欧米人と違って、っていうか、
日本人と他の国の人間を明確に分ける基準があるとすると、
一番大きなポイントは、入浴の習慣でしょう。
肩までしっかり浸かって入り、しかも
カラダを洗うのは浴槽外で、という
大量の湯と同時に、暖気も必要になる風呂習慣ですね。
この浴槽は、明治の初年建築の北海道余市の漁家住宅のもの。
家人専用のお風呂であります。
雇用者たちは、この家で過ごすのは春から秋までなので、
沐浴は、家の外の水場で行っていたといわれています。
薪を大量に消費して、湯を温めるというのは
たいへん豪勢なことで、貧富の格差が明確だったのですね。
薪を燃やすストーブ部分が鉄で覆われて
その熱がこちら側の木製水槽に伝えられ、
湯が沸く、という仕掛けになっています。
家の断熱もまったく顧慮されていない時代、
こういう風呂に入るというのは、気合いのいる行為ですね。
冬期間は、漁とかはないわけで、
日中でも忙しいわけではないでしょうから、
天気のいい日の昼間をめがけて
入浴したものかも知れません。
内地での夏場の暮らしのように、日中の汗を夜に流す、
っていうような生活習慣ではなかった可能性が高い。
いろいろに想像力が膨らんでくる思いがします。







北のくらしデザインセンター
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び
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秋田湯沢・両関酒造

2008年04月01日 06時37分55秒 | 古民家シリーズ

写真は秋田県湯沢市の中心部にある蔵元「両関」。
大型の木造建築として、地域を代表するような景観になっている建物。
実際に建っている姿を見ると、その巨大さに圧倒されます。

日本の文化の中で、日本酒の製造業というのは
もっとも始原的な製造業「商品」であって、
だいたい良いお米が取れるか、良いお水が取れるか、
場合によってはその両方が取れるか、というような条件が揃えば、
それこそ日本中、どこでも競って生産されたものだろうと思います。
「地酒」として地域のみなさんに愛されて、
同時に地域を代表する製造業として、産業勃興期には
みんな産地間競争として、企業の大型化を推進した。
しかし、残念ながら、日本酒での「全国制覇」という果実は
どの企業も勝ち取ることが難しく、
また大型化の過程で、そもそも「地域密着」型企業である
「地酒」屋さんという側面がどんどん薄らぎ、
どこの誰が作ったモノか、ワケわかんないお酒になってしまって、
企業価値を大きく落としてしまった、というのが実際のところだったと言えます。
この写真に見られるような大型木造建築って、
たぶん、そうした時期の、
いわば「成長への切迫した願い」が表現されているものなのでしょうか。

建物としてみたら、柱や梁が正しく組み上げられて行っていて、
斜めの構造材というようなものは表に出てこない。
こういうふうな構造架構は、日本人の伝統的な美意識に由来しているそうです。
筋交いのような、あるいは火打ちのような斜めの部材は
なるべく表面には見せないように組み上げるのが
由緒正しい技術としての美意識だということなんですね。
たしかに、内装部材としての「障子」などの
タテ横のまっすぐなラインだけで構成された格子のデザインなど、
日本人は、このような美への感覚がDNA的に刷り込まれている部分があると思います。

この建物はいまも使われているかどうか、
よく調べてはいないのですが、
周囲の街並みの中で、まさにこの地域らしい景観のシンボルにはなっている。
これからもこれを延命させていこうと考えたら、
やはり観光資源としての側面の方が、有用だろうと思います。
秋田県南部地域の米と酒、というような文化の側面を
その存在だけで、実に雄弁に物語ってくれている。
長く存続していって欲しいものだと思いました。
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建築が土に還っていく美しさ

2008年01月12日 07時29分17秒 | 古民家シリーズ

どうもこういう建物に道端などで出会うと
ついシャッターを押してしまいます。
住宅の取材が仕事の大きな部分なので、
年間で200件とか見に行くことになるのですが、
大概が立派な新築住宅か、きれいにリフォームされた家。
で、見ているとだんだん、還元してみるような心理が起きてきます。

そんな気持ちが、こころのどこかにあって、
こういう古い建物が無性にいとおしくなってくる部分がある。
この建物も、宮城県の山の中で発見した農作業のための小屋、でしょう。
人間が暮らしていた、というよりは
山仕事の拠点として活用していたような実用性を感じます。
しかし、それにしては窓がしっかり造作されていたりして、
2階が造作されてもいるのは、少し不思議。
ひょっとすると、少人数の家族が暮らしていたのかも知れない。
であると、どういう稼業で暮らしていたものか?
生活痕跡は見つけることができないだろうか、
などというように、思念が広がっていきます。
建築としては、素材の朽ち方から見て
50年以上の時間は感じられますね。
2階の塗り壁などは一部が崩壊もしているので
それくらいの時間は見ていいと思います。
たぶん、規格寸法通り、そのまんま造作していったというプロポーション。
屋根の傾斜もごく一般的なもの。
雨を避ける下屋のような屋根が1階に差し掛けられて
シンプルな切妻に変化が加わっている。

まぁ、こんなようなことがらが一瞬のうちに駆けめぐって、
なにか、メッセージを伝えようとしてくると感じるのでしょうか?
特段、どういう目的があるわけでもなく、
なんとなく導かれるように、写真に納めてしまうのですね。
ただ、なんとなく「古びてゆく」ということに
そのこと自体に、心惹かれるような部分があるのではないかと。
で、こんなふうに堂々と清く正しく(笑)、
正直にわたしは古びてきましたよ、と語っている建物に
「よくぞ、まっとうに古びてきたな(笑)」みたいな感情を持つのかも知れませんね。
ちょっと、変な偏りかなぁ、と
密かに自分自身を心配する部分もあります(笑)。
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形から入る

2007年12月14日 06時43分00秒 | 古民家シリーズ

写真は宮城県白石市に残る武家屋敷の様子。
白石市って、明治になって新政府からいろいろいじめられて
この地に残ることができず、やむなく、北海道に活路を求めた藩。
で、北海道内で給付された土地は、
いまの札幌市白石区だったそうなんですね。
当時は、っていうか、昔は「白石村」。その後、白石町になって、
やがて札幌に編入され、町から区制施行で、区になった。
原札幌とは、豊平川を挟んで川向こうに位置していて、
当時を偲ぶよすがはあまり残ってはいませんが、
北海道の政治的な中心地との位置関係で言えば、利便性は高い。
きわめて初期に入植の決断を下したからか、
それとも、そこらへんは「政治的に交渉」したからなのか、比較的有利な土地に
入植できたものと思われます。
とはいえ、江戸期に軟弱化した士族たちが
刀を農具に変えて開拓農業に従事して未来を開いてきた。
そういう意味では、札幌と具体的に直接繋がる歴史性、
日本の母体を感じさせる存在ではあるわけです。
いまも、やはり言葉などで、かすかに文化的つながりを伝える部分もあります。

なんですが、さすがに武家屋敷、
この写真は玄関周囲を撮ったものなんですが、
左側の普通の、土間に至る玄関とは別に、
正面に低い高さの「にじり口」とでも言えるハレの玄関がありました。
左手の入り口高さと比べたらわかるとおり、
実に低く、小さな玄関なのですね。
入ってみようかな、とは思ったのですが、
どう考えてもひざまずかなければならなそうで、
ちょっと気持ち的に臆してしまい、断念いたしました。
この玄関は、藩の上級役職者がこの家を訪れるときに使用するそうです。
ここから入ると、そのまま上座に縁側から入れるのだそう。
それが、「格式」を表現していた、という次第。
このあたり、やや茶道の影響も感じられます。
色々な文化要素が、この身分性様式に動員されたのだと感じます。

江戸期の社会の基本は「身分制の維持」だったことから、
たとえば門にもいちいち格式で差別を作る、というような社会。
「形から入って」精神性を涵養する、という狙いだったのですね。
こういうことが実質的にどれほど意味があったかは論議があるところですが、
すこし窮屈とはいえ、精神性には大きな影響を与えてきたことと思われますね。
今現在でも、そのように解説が加えられなければ、
この写真の開口部がそういう意味合いを持っていた、
ということを、たとえば外国の方に伝えるのは至難の業。
まぁ、そのうち、伝達できない歴史的遺物装置になるしかないと思われます。
生活の自然的文化は伝わっていくけれど、
恣意的な権力の強制する様式って、伝わらないのではないでしょうかね。

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江戸期のシステムキッチン?

2007年11月13日 05時43分31秒 | 古民家シリーズ


いやぁ、仙台市青葉区、というのは広いです。
札幌でいえば、中央区に相当するのですが、
そういう地域も多いけれど、山また山を越えて、
どう考えても山中の森の管理人、というような風情のお宅訪問。
要するに、江戸期に建てられた森と木材の大庄屋さんと思われる古民家を
再生した工事を拝見にいった次第です。
仙台市内中心部から、車で約40分で、
山の中にある集落の中心的な位置を占めている建物でした。
ときどきリプラン誌面で紹介している
安井妙子さんの設計監修になる古民家再生の事例取材。
今回は次号東北版が宮城県仙台特集なので、その取材なんですね。
住宅については、また機会を見て取り上げたいと思いますが、
写真は、その家にあったみごとな調度品のようなかまど。
かまどって、古民家には当然つきものの炊事装置の基本。
なので、大体が機能性本位の無骨なつくりが多いのですが、
このかまど、木製の飾りがぐるっと、本体を修飾しています。
脚などは、猫足的な、雲形のような装飾まで施されている。
どう考えても、こういう装飾性は本体機能とは無縁なので、
やはり、意匠性を考えたものに間違いはない。
であるとすれば、さて、どのようなことだったのか、
想像するしかありませんね。
いろいろ、古民家は見て歩くけれど、こういうのは初めてでした。
武家などの家でも見たことはない。

類推的には、今日の家具的に装飾されているシステムキッチンに近い感じ。
扉の面材など、木目調やら、シャープな金属製など、
さまざまな装飾が施されていますよね。
ああいう感覚に一番近い。
でも、そうだとすれば、相当な「暮らしを楽しむゆとり」を表している。
江戸期の材木商というのは、紀伊国屋文左衛門のように、
相当の富を集積していた存在だったのですね。
まぁ、目の保養というか、驚かされた豪華さでした。
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ジャパニーズインテリアの凧絵

2007年11月04日 06時33分57秒 | 古民家シリーズ


きのう、紹介した古民家に飾られていた凧です。
こういう凧の絵柄って、どういう作り手、書き手の手になるものなんでしょうか?
いつも興味深く考えさせられています。
棟方志功さんっていう画家は、津軽のねぶた絵師をやっていたそうですが、
こうした凧の絵師というのも、想像すれば同様だったろうと思います。
極彩色で、わかりやすい題材に取材して描き上げるものなのでしょう。
で、買う側の「わかりやすさ」や嗜好が反映されるのだろうと思います。
ただ、そう考えてもやはりわからないところがある。
わたしも好きで、こういうのを1枚家に飾っているのですが、
どこで買ったか、はもう覚えていないのですが、
絵柄が、畠山重忠となんとか、という源平盛衰記に取材したような武者絵なんですよ。
現代でいまなお、こういう時代の絵柄を題材に選ぶという感覚がよくわからない。
いまどき、畠山重忠なんて、99%の人間は知らないと思うのです。
ほとんど、買う側の人間も理解できてはいないだろうと思うのです。
それでも描き手がこういう絵柄を選ぶというのは、
日本人の「勇壮感」とでも呼べる感覚が、武者の筆絵という
定型パターンで、凝り固まっていることを表しているのでしょうか、ね。
それとも、絵師の世界は一子相伝のようになっていて、
絵柄についても、一切進化しないような伝統保守の世界になっているのか。

まぁ、しかし、こういう凧の絵柄に似合うとすれば、
これ以外には、格闘技やスポーツの題材くらいしか思い浮かばない。
それはそれで、知的所有権の問題が出てくるだろうから、
そう、ことは単純ではない。
それ以外の事柄を取り上げようとしても、いろいろ壁は多そうだ。
そんな事情もあって、いわば絵柄の進化のストップがあるのでしょうか?
もっと想像すれば、若い後継者がこの業界に存在しないのかも知れない。
と、考えれば、この先、こういう絵凧は希少価値が出て
高く売買されるかも知れない、なんて想像も浮かぶ(笑)。
日本ブームが空前という海外から、ジャパニーズインテリアとして
こういうものに脚光が浴びるようになるかも知れません。

なんといっても、和室の欄間飾りとして、
このように飾り付けられているインテリアの統一感は得がたい。
わが家では、ブロックの壁面を飾るものとして飾っていますが、
この独特のキッチュさは、やっぱりニンマリとしてくる日本的感覚。
味のある筆書きの力強さ、素朴さ、極彩色の躍動感などなど、
お正月のような賑わいの原風景的なものを感じます。
というような妄想を抱かせられた和のインテリアでした。
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DNA的ノスタルジーの農家住宅

2007年11月03日 07時04分12秒 | 古民家シリーズ

写真は山形県酒田市近郊の農家住宅です。
肝煎り、というクラスと言うことですから、上級農家。
茅葺き屋根のおおらかな佇まいが、訪れるものを柔らかく迎えてくれます。

このお宅では、入り口を入ってすぐに馬の小屋がありました。
ちょうど写真左手前側、主屋から突き出すような位置。
左右には農作業のための道具の収納場所があり、
まさにいま、田や畑から帰ってきて、
馬に飼い葉をやり、水を飲ませ、農機具を片付けるというような光景が、
まざまざと脳裏に浮かんできます。
その空間を抜けると、なんとも頃合いの良い土間のなかの囲炉裏がありました。
「とりあえず」空腹を満たしたり、渇きを癒したり、
暖を取ったりする、そういう空間です。
ちょうど、この建物のオーナーの方がいらして、
囲炉裏に火を入れてくださったりして、なんとも遠赤外線的なもてなし。
その薪の燃えるさまに、こころが吸い寄せられます。
十分に先人たちが踏み固めた土間、自然の素材を工夫して使っている内装。
近隣の山から切り出してきて造作された構造の、やわらかで力強い質感。
そういった農家住宅の基本要素が、迎えてくれるような感覚を持ちます。

里山に接して建てられていて、伏流水なども豊かなようで、
池が作られてもいました。
暮らしを支える暖房の薪も、ちょっと外に行ってくれば
里山から豊富に入手することが出来る。
すべての生活要素が、過不足なくいろいろに満たされている。
いろいろな地方を訪れる機会が多いのですが、
やはりその地域を知るためには、伝統的な農家住宅を見るのが一番良い。
その地域での暮らしよう、というか生き方が
見るものに直接的に感受できます。

この時期、一年の農作業がだいたい片付いて、
冬を越す準備をしながら過ごすわけでしょうね。
いろいろな想像力がわき上がってきて、
いつも、こういう土地での暮らしもいいかなぁ、と
思い至ることが多いものです。
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本間家の残照

2007年10月26日 05時51分25秒 | 古民家シリーズ




江戸の時代というのは、商業資本の蓄積期ともいわれます。
今日に続いてくる財閥系の資本蓄積が進んだ時期でもある。
三井とか住友とか、大商家が育ったといわれる。
その経済的な利権のなかで大きいのはやはり北前の経済。
そのなかで、庄内・酒田の本間家は
地域に根ざした大商家として著名といえますね。
「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という謳いが自然だったという。
酒田で、その栄華の残照を見てみたのですが、
とりわけすごいのが、この別荘住宅。
昭和天皇か、大正天皇かどちらかが、即位される前、皇太子の時に
この別荘に来られたことがあるそうで、そのときに
2階を増築し、庭園を整備したということだそうです。
まことに、庭園は結構を尽くした造作で、ただただ、感嘆のため息です。

この庭園建築は、公共事業の側面も持っているということで、
飢饉などで、庶民が苦しんでいる時期に、
この庭園建設を進めることで、地域に仕事を作って経済を支えたそうです。
まぁ、大金持ちにしてみたら、きっと、打ち壊しの恐怖との兼ね合いで、
そのような施しをした方が身の安全だと考えたものでしょう。
ただ、すべてのお金持ちがそのようにしたわけではなかっただろうから、
篤志の志は、持っていた家系なのだろうとは思えます。

というような背景でこの建物を見てきたのですが、
日本の高級建築の基本は、庭園との関係性というものが圧倒的なのだと
あらためて思わされますね。
この家でも、遠く鳥海山を遠景の借景として、
築地塀で仕切られた内側は、満艦飾の植栽デザインで埋め尽くされています。
贅を尽くす方向が、石とか、植栽というものに向かっている。
建築というのは、そういう庭園への眺望を最善のごちそうと考えて作っている。
明治の初年に日本にガラスがもたらされてすぐに
庭園への開放的な眺めの得られる開口部全面にガラス建具が入れられている程度。
あとはひたすら調度の豪華さで勝負する。
そういう意味ではここちよい夏の過ごし方は見えてくるけれど、
やはり冬は防御的にやり過ごすものと考えている。

こういう大金持ちのみなさんでも、
決して得られなかったような冬の心地よさというものを
現代のわれわれは、享受することが可能になっているのですね。
しかし、まだ、そういう価値観に鈍感なひとたちも多い。
ユーザーばかりではなく、建築を作る立場の人でも少なくはない。
そんな雑念も起こってくる豪華さの、別荘でした。
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美しい京都町家

2007年08月13日 09時49分28秒 | 古民家シリーズ


京都の街の散策で一番楽しいのはやはり、町家の風情。
今回の旅行でも、いろいろな建物を見学できました。
実際に使いながら、持続可能になるように考えて使い続けています。
地球温暖化防止のための象徴的な取り決めの場所が京都であった、
というのは、この運動を主導するヨーロッパ人たちの知恵を感じます。
かれらは、サスティナブルな建築文化として
日本の古建築、大寺社建築をインスピレーションにしている、
ということを語ることが多いのですが、
その延命の仕方のひとつのモデルとして、京都の文化を想定していることを感じさせます。
長く存続させていく工夫と知恵が、京都の文化のなかには
沈殿して、しかも生き生きと元気を持っているとも思われるのです。
写真はメインストリートの烏丸通りからほんの少し、30mほどに建っていたもの。
美しい瓦屋根、正面の木格子のデザイン、
アースカラーがそのまま、美しく古びているさまが、洗練を感じさせる。
さりげなく置かれた大壺などがぴったりとマッチし、
様式のなかに生き続ける凛とした美の感覚がここちよい。
「奈良漬け」と書かれた専門店のようでしたが、
買い物をするというよりも、その内部の空気感を味わってみたくなって、
思わず土産品として購入してしまった次第。
内部は、太い構造材の柱・梁がダイナミックに縦横し、
2層分の吹き抜け空間になっていました。
表側から見る繊細なデザイン感覚とは違って、力強い建物です。

何回も権力争奪の戦争によって灰燼に帰した京都ですが、
そのたびに不死鳥のように甦り続けてきた街なのですね。
日本建築の象徴といわれる伊勢神宮が20年ごとに式年遷宮されて
新たな命を、次の世代に活かし続けていくように
木造の建築文化のある部分を表現している気がします。
戦後、木造が焼ける、ということで建築文化の少なくともデザインの部分を
結果として否定し続けてきたのが、日本の建築法規だと思いますが、
さて、未来に向かって、残るのは法規なのか、
それとも、先人たちが培ってきた木造建築文化なのか、
問題意識を持って、考えていかなければならないテーマだと思っています。




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