三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【江戸城から開拓使本庁へ 建築技術者のDNA移植】

2019年11月30日 06時26分19秒 | Weblog


さて「北海道住宅始原の旅」シリーズであります。
前回は、写真下の「開拓使本庁」をご紹介しましたが、
わたしのはるかな「導師」故・遠藤明久先生の論文を研究しています。
「開拓使営繕事業の研究」という労作の論文。
明治初年における開拓使の建築工事を丹念に考証されている。
開拓使の工事は明治2-3年の島義勇判官の着任早々での罷免の影響から
明治3年中は既存仕掛かりを除いて全体として緩慢な動きになった。
一方で実質的な開拓使の主導者・黒田清隆が明治4年に洋行し、
そこでケプロンなどの御雇外国人を招致し、
開拓使の建築をアメリカの基本建築技術に沿った「洋造」に決定した。
基本方針・国家意志が定まったことで明治4年末から大きく動き出す。
事実、島義勇には官舎の建設について思想らしきものは垣間見えないのに、
明治5年に着工し明治6年に竣工する「開拓使本庁」は明瞭な
アメリカンスタイルの「洋造」建築になっている。
この基本的方針を表す庁舎、その営繕工事の実質的推進技術者について
遠藤先生は歴史の掘り起こしを行われています。

そこで浮かび上がってきたのは、岩瀬隆弘という人物。
かれは旧幕臣であり明治新政府・民部省土木司、大蔵省営繕司の職員録に
その名を残したあと明治4年7月に開拓使に奉職し9月に札幌に着任。
もっとも象徴的建築としての開拓使本庁や琴似屯田兵村工事がこの時期行われ
その2年半あまり後の明治7年3月に札幌を去って帰っては来なかった。
慣例として、旧幕府当時の「履歴」についてはこれを記載しないという
文書上の決まりがあったそうで、旧幕府時代の仕事は詳らかではない。
開拓使奉職時点で53歳だったというので、生年は1819年前後。
脂は乗りきってすでにかなりの「高齢」時点での北海道勤務。
遠藤先生の掘り起こしでは屯田兵屋の建つ「琴似町史」の記述の中に
「(屯田兵屋の)設計を担当した人は、もと幕府の御普請方で江戸城西の丸
本丸の火災の後の新築造営にあたった、維新当時の日本建築の
権威者である岩瀬隆四郞という人で、この人は開拓使東京出張所の
営繕係の権大主典であった。」という記載があると。
<この当時は名前は幾通りか通称なども使用していて、
岩瀬隆弘さんも、別の記録で「隆四郞」名を使っていたということ。
注)権大主典というのは明治初期の官職名。係長とかに相当するか。>
さらにこの岩瀬さんについては、「札幌昔譚第二巻」に岩手県の士族で
開拓使に奉職後、屯田兵になった栃内元吉さんという方の談話で
「岩瀬さんは建築の大家なり。翻訳などにより外国建築にも通ず。」
というような逸話が遺されているのです。
これらの伝聞資料について遠藤先生は厳密性には疑問もあり断定はできないと
されています。学者としてさすがに実証性を重視される姿勢。
このあたりの検証については碩学のみなさんに期待したいのですが、
メディア人間として想像の翼を広げさせていただければ、
かれは開拓使本庁という象徴的建築の工事最盛期に
この「洋造」建築の発注者側担当官として任に当たっていたのであり、
その技術者としての技量を買われて開拓使に奉職したと考えるのが自然。
また、記述にある幕臣時の「江戸城西の丸の火災」は、
1852年(嘉永5年)西の丸御殿を焼失
1863年(文久3年)本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1867年(慶応3年)二の丸御殿を焼失(この年、大政奉還)
といった事実がWikipediaにあります。
かれ岩瀬が関わったとすると、1852年であれば33歳時点であり、
最後の1867年では48歳ということなので担当として現役バリバリでしょう。

旧幕府と新政府、開拓使をDNA的に連続させる人物ではと思われてならない。
どうもいろいろな想像力が刺激されるような史実だと思います。

<おっと、だいぶ長くなったので、あした続篇を書きます(笑)>
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【土地の地形推移と住宅が考える存続期間】

2019年11月29日 07時34分17秒 | Weblog


最近、宮城県で住宅の動向を取材していて「雰囲気」として、
1000年前の貞観地震大津波から東日本大震災までの期間の長さをみて、
「もう1000年くらいはああいう大災害は来ない」
みたいな考え方が一部でささやかれている。
住宅ってそもそもそんな長期間の存続まで考えるものではないし
現代では核家族化の進行、企業勤務への生業変化などで
永続する「家系」の拠点という伝統的意味合いが薄れたか消失している。
子どもが「代々の」居住資産として受け継ぐような意識はないのだし・・・。
というのが抜けがたいホンネではないか、という次第。
結果、ローコスト住宅花盛りという市場の現実がある・・・。

これはある意味、ホンネそのものだろうなと思います。
ただ、貞観地震から東日本大震災のスパンが1000年だったことが
考え方の根拠だとすれば、それは「定理」ではない。
どうも活動期に入っているような列島のマグマ的自然状況をみると
むしろ災害は「常在戦場」的な危機が高まっていると思われます。
しかし、家というものは今日「受け継いでいく資産か」という疑問には
たしかに納得できる部分もある。
住宅の寿命は、物理的な長期優良性確保はもちろんだとしても、
しかし、用途と使い勝手などの細部までが不変であるとは言えない。
「暮らし方」は時代によって好みも変わるし、規範も推移する。
問題は「いまなにが重要か」という価値観の問題。
この価値観の変化のなかで、住宅もゆれ動いているということでしょう。
その点では家族でも親子でもやはり違いが出てくる。
そもそも住宅は土地に根付いて建てるので、
その「土地」に暮らし方が当然「縛られる」ことになる。
そんなことからちょっと自由になりたいという現代人の意志を感じる。
しかしまた逆に首都圏「地方」では新たな「地元」意識の高まりも見える。

図は関東の「古地形」と現状の姿。
1万年のスパンで見れば関東の平野部の多くは海の底。
その右側にあるのは、5000年前の海岸線とそれに随順した
生活痕跡である「貝塚」のマッピングです。
万年単位で見る必要はあまりないでしょうが、
しかし地盤補強などの基礎知識や、気候変動にともなう災害については
安全安心という重要要素についてベーシックな「知恵」を教えてくれる。
ビッグスパンの知恵と、個性的な生き方との相関関係、
住宅を考えるふたつの基本要素なのだろうと思います。
北海道発の寒冷地住宅の基礎技術は、そのなかの
「生き方」の基礎条件で「いごこちの満足感」を提供するもの。
こういうスタンスで、ユーザーのよりよい選択をナビゲートする
イマドキの住宅(情報)提供側は、こういうことになるのだと思います。
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【輪廻転生 気候変動 天体衝突】

2019年11月28日 06時59分50秒 | Weblog


ちょっと前に1160万年前の「最新の生命絶滅痕跡」発見、
というニュースが流れていましたね。
写真はそのニュース当時、NASA提供の写真として流布されていたもので、
その下は産経WEBで見られた図表です。
地球の年齢は45億年前後と言われていますから、
この図表にあるのは、生命が宿った以降での「大量死」であって
それ以前にもたくさんの隕石や小惑星天体の衝突とか、
あるいは地球の一部が月になって分離していった、みたいな
人知を越える大変動が、こんなふうに幾度となく起こっている、
そのことがかなり明瞭に見えてきたということなのでしょう。
現代世界がたとえ滅びたとしてもそれが最後ではなく、その先にも
輪廻転生の世界は続いていくのだともいえる。

みなさんはこのニュースをどのように受け止められたでしょうか?
ここまでの巨大科学事実までは想像力は及びにくいのですが、
わたしは身近な北海道石狩平野地域や関西地域の「地形変動」が、
「ほんの」6,000年前や2,000年前程度で事実としてあった、
そういうことをさまざまに知るようになってからか、
ある意味、不思議と気分が軽くなっている自分がおります。
で、なんでなんだろうと考えるのですが、
こういう事実、科学的解析が導き出す宇宙規模の物理の姿というのは
「輪廻転生」という思想そのものではないかと思えるからなのです。
どちらかというと他罰的な傾向が強い
支配的な一神教宗教、そして左翼共産主義思想などでは、
こういう科学事実の普遍的受容は縁遠いかもしれない。
それはこれらに特徴的な、誰か他者、あるいは事柄を悪と見立てて正義を実現する、
みたいな思想体系が根本的に冷静さを欠いているのであって、
科学解析される宇宙物理は、この「輪廻転生」が基本だと証明されてきている。
そういう意味で「他罰的ではない」思想発展の機縁になるのではと思える。
こうした輪廻転生型の価値観を持っている
仏教思想こそ、こういう最先端の科学解析受容にはふさわしく感じられる。
極楽浄土の来迎には地球年齢と近い56億7,000万年後という年代特定もある。
科学的に冷静に物理を分析し対応することがもちろん基本ですが、
さりとて人類に小惑星衝突を回避できるような科学的な力が
できるとも思えないしその力を持ったとしても
人類社会がそれを的確にハンドリングできるかどうかにはきわめて懐疑的。
今後の精神的な判断基準は、仏教的な自省的宇宙観の方がふさわしい。
万物流転とか、諸行無常とかという輪廻転生思想の「正しさ」が
科学的に裏付けられてきた、というような思いがあるワケなのです。

繰り返し自然災害と共存してきた日本社会には
こうした輪廻転生思想は、比較的に民族の精神性にも根付いている。
・・・加齢の結果でこういう価値観に親近感がうまれるのでしょうか?
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【年末繁忙期 社長食堂も随時営業(笑)】

2019年11月27日 06時55分45秒 | Weblog


ことしももうすぐ師走という時期に差し掛かってきました。
年末進行でたくさんの案件が同時進行。
ということで、疲れが溜まってくるタイミングを見て
社長食堂の出番であります。
これまで参加人数について各部署ごとで4−5人程度など
メニューと相談しながら、いろいろな試行錯誤を繰り返してきましたが
やはりできれば、全員いっしょに食べられる方がいい。
少人数の方が作る方の量的負担はやや減るのですが、
一堂に会してワイワイガヤガヤしている方が楽しい。
ということで、メニューにはやや限定がかかりますが、
最近は大人数いっぺんにやっております。

作る方はまさに戦争のようなもので、15-6人くらいのメンバーの
胃袋を一杯にするのはなかなかの難事業ではあります。
わたしはよく知りませんが、大人数の食事を作る組織の
台所について、興味が募ってきております。
どうやったら、大人数の大量食材を一気に用意できるのか、
そのノウハウは知りたいなぁと思っております。
いまのところ、月曜日に挙行することが多いのは
前日が日曜日なので、準備作戦を整える時間が取れるワケ。
それとメニューですね。
大人数で大量に作らなければならないとなると、
どういうメニューにしたらいいか、深く悩む。
・・・ということですが、
けっこうこの「社長食堂」の外部ファンが多いようで(笑)
「今度はなにつくるのさ(笑)」とふるまっていない外部の方から
興味津々に話しかけられることがあります。
スタッフに聞いたらそういうファン(?)の方は多いようです。
SNS、WEB時代にはこういう「コミュニケーション」の和の拡大がある。
逆に大変興味深い現象だなぁと気付かされてもいます。
しかしそうなるといよいよメニューがアタマを悩ましてくる・・・。
ここんところは麺類で焼きそば、けんちんうどんと続きましたが
次回はちょっと変えて行きたい。
店主としては、大いに切磋琢磨を心がけたいと思っております。
次回は9日予定だったのが、え、火曜日10日?
ありゃりゃ、前日仕込みできないじゃないか、おお・・・。
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【自分の住んでいる地域の歴史を知る】

2019年11月25日 07時12分39秒 | Weblog


いま日本全体が気候変動期に突入してきている。
明治以降、いや戦後70数年間比較的に気候安定期だったことから
それを「常態」と考える「平和ボケ」みたいな意識が日本人にある。
だからよく「想定外」というコトバが交わされる。
堤防などの「備え」についても安定期の常識に基づいて基準想定している。
しかし、もう少しビッグスパンで見れば、
まったく違う見え方があるのだということに気付かされる。

ここのところ、明治初年前後の歴史の掘り起こしをしている。
その前史としての地形変動なども下地として調査している。
大きな「気候変動」が波動として地域景観を大きく規定していることがわかる。
図とジオラマは札幌中央図書館にある「埋蔵文化財センター」展示。
基底的な標高図と、地形の成り立ちが色分けされて、
それにあわせて人文的な「遺跡」がマッピングされている。
先日のブログ記事で「古石狩湾」という6000年前の地形認識をもって
こういった図を見返してみると、いろいろな気付きがある。
おおまかに札幌は比較的高地と低地が、ほぼ函館本線で区画されている。
明治の初めの鉄道敷地選定は、非常にしっかりした基準でされていると
最近の水害などで気付かされているけれど、
こういった明治の先人の「知恵」に大いに学ぶ必要がある。
そしてこの地で暮らしてきた先住の旧石器、縄文、続縄文、
擦文、アイヌといった人々の「生業と安全」の臨界であったに違いない
遺跡痕跡からも多くのことをうかがい知ることができる。
まずは水の確保、そして食資源とのアクセス、(水上)交通の確保など、
人間の基本的な生存条件に対して適合的であることを教えられる。
古札幌の地で、先人たちの暮らしように思いをはせると
今の生き方を考えていく起点を提供してくれていることが伝わってくる。

きのうも、150年前・明治2年のほぼこの時期に小樽市「銭函」に
札幌入地前の段階で数ヶ月、開拓使判官・島義勇が居遇した地を探した。
記録では「白浜さん宅」を借りて「開拓使仮役所」としていた。
数ヶ月とはいえ、国の中央省庁同格組織の「役所」であります。
なにがしかの「よすが」が遺されているのではと思ったのですが、
いまのところ手掛かりはありません。
その帰路、島義勇が数ヶ月「通った」札幌創成河畔への20kmほどの道程を
そのように意識しながら地形の高低などを注意しながらたどってみました。
なにげなく見ていた光景が再発見に満ちた情景として
見えてきておりました。楽しいライフワークです(笑)。
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【中央省庁機関「開拓使」住宅施策の民族的継承】

2019年11月24日 07時23分19秒 | Weblog
北海道住宅始原の旅シリーズです。
現在存在する地方自治体としての「北海道」は、
全国でたいへん珍しく「住宅政策」を自前で考え実践している存在。
直近の事例では「北方型住宅2020」という住宅施策を開始する。
ふつうに考えれば住宅施策を一地方政府が考えるのは
国土交通省の管掌領域を侵すことになるのではないか、
そういった官僚機構的「忖度」があるだろうことは自明。
地方自治体は「外交」を独自に他国と条約として結ぶことはできないし、
税を勝手に専断していいワケはない。
であるのに、北海道の側にも国交省の側にも、こと住宅については
表面では相互の間にある了解があると感じられる。
寒冷住宅政策については北海道はかなり自由にハンドリングしている。
それは、北海道という地域が日本の他の地域とかなり違う風土条件を
持っていることからの例外的必然だと思うのが自然だと思う。
しかし、歴史的事実を掘り起こすほどに、
「開拓使」という特異的な機関についての理解が立ち上ってくる。

開拓使という、いまとなっては特異な政府機関は、
ロシアなどの帝国主義列強による植民地支配欲求に対して
日本の領土を保全することと、その領土をどう経営するか、
その両方を実態的に政策推進するために期限付きで設置された中央政府機関。
いわばその住宅政策がそのまま日本の国策であった稀有な事例だと。
しかもその機構成員主流が薩摩藩閥で固められ、
ながくその巨魁・黒田清隆が開拓使を支配し続けたことで、
政治的な力を持ち続けてきた存在だったといえる。
こうした中央政府官庁であったDNAが150年の時を超えても
地方自治体としての北海道には存在し続けている。
その基盤として、先人である開拓使が日本の住宅に対して
どのような施策を持ってあたったか、
その掘り起こせる事実の痕跡から、今を生きるわれわれに大きな
羅針盤を得られるだろうことは明らかだと思われます。
とくに住宅建築の分野においては、かなり決定的な「民族意志」を
そこに見ることが可能だろうと思われるのです。
多くの先人たちが体験し、試行錯誤してきた道程そのものが
民族としての貴重な「資産」であり、それを自覚し続けることが、
きわめて重要なのではないかと思っている次第です。

写真は明治初年、茫漠たる「根室」に忽然と建てられた
「洋風」木造建築群。まさに「意志」が貫かれていると感じます。
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【明治5年4月建築「ガラス邸」和風公邸】

2019年11月23日 07時33分47秒 | Weblog
北海道住宅始原の旅であります。
古記録に見える明治5年「御用火事」記述の中で「ガラス邸あたりから」
といった記述があって、その建物について調べていました。
それがきのう触れた遠藤明久先生の古調査で
「夕張通壱号官邸」であると特定されていました。
<夕張通という名は札幌市内道路に付された明治初期官制名称>
先生の書かれた「開拓使営繕事業の研究」や「さっぽろ文庫23 札幌の建物」に
このガラス邸についての調査記録が遺されている。
「この建物は現札幌市中央区北4条西1丁目に前年の明治4年10月に
着工したものであるが明治5年4月に完成した。記録によると
和風住宅で板ガラスは、縁側に面した室内の紙障子の一部に用いている。
「札幌昔話」によるとガラス障子を初めて使用した建物であるという。」
ガラス邸、という名称から無意識のうちに「洋風建築」と思っていたのですが、
どうも和風建築として建てられたようなのです。
用途としては開拓使長官邸としての公邸、後にお雇い外国人宿舎とされた。
「建材としての新規性」を強調する意味で日本人が慣れ親しんだ
「障子」がガラスに置き換わっている方が視覚効果として大きかったのかも。
洋館だと新奇的で当然と受け止められ、衝撃性が薄らいだ可能性もある。
そうした事実を証明するように以下詳細に記述が及んでいる。
「完成の時、官では市内人民に縦覧を許すというので
皆、朝早くからその官邸に押しかけて拝見するという騒ぎ」だったという。
「初めて見る「板ガラス」に対する当時の人々の驚きと感動とを
知ることが出来るエピソードである。」

上に示した「夕張通壱号官邸」図面でのどの箇所が
「紙障子をガラスに変えていたか」は定かではない。
どうもいまのところ、写真記録は探し出せないのですが、
和風住宅として居住部分の外側に「縁」が回されているので、
その内部側、居室の障子建具がガラスに置き換わっていたのでしょう。
そういうことが、画期的というか画「時代」的なことであった。
多くの市民が押し寄せ、ガラスの窓実物に接して興奮する様が伝わってくる。
その後、北海道で特異的にガラス窓が普及していったことを重ね合わせると
この現物展示の威力、効果のほどがいかに衝撃的だったかが知れる。
なので、御用火事記述でも「誰でも知っている」という意味で
ガラス邸という固有名詞となっていたのでしょう。
その後の社会が一般的に受容したことがらというのは、
あまりにも普遍化しすぎて、その事実の起こした衝撃が希薄化するものですが、
このガラス窓については、その大きな事例だと思えます。
このことは当時の札幌都市建設に、かなり決定的なインパクトを与えた。
官による徹底的な「洋風化」志向と合わせて、その建材についても
住空間革命を同時に進行させていたといえるのでしょう。
欧米の社会を視察してきた明治の指導層にとって、この建築の革命は
絶対に推進する必要があり、その最先端地域として北海道札幌は
いわば社会実験の最大の舞台であったということなのでしょう。
ほかの本州地域がごく一部でしかガラス窓の普及が進まなかったのに
北海道ではどんな奥地の庶民住宅にもガラス窓が一般化していった。
ある時期までの「ガラス市場」は北海道マーケットが引っ張っていた。
最近で言えば、樹脂サッシやペアガラス、3重ガラス窓市場が
北海道市場が全体を牽引しているようなことの嚆矢が
この時代の「ガラス窓」において発現していたのだと思います。
北海道が建材の実験場的なマーケットとして日本社会で位置づけられていく、
最初期の事実がこの「ガラス窓」だったといえる。
遠藤明久先生は、この重要ポイントにいち早く気付かれていた。
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【先人碩学・遠藤明久先生「天国からの手紙」】

2019年11月22日 07時44分50秒 | Weblog


人間、継続してなにかに興味を持ち続けると
いろいろな助力を得られるものだと思います。

わたしは北海道に生まれて住宅の雑誌を発行し続けてきた人間です。
必然的に「高断熱高気密住宅」という地域住宅文化のハブを意図してきた。
いまでは東北や関西といった地域でも発行して
そういう家づくりを志向する運動のハブ機能も果たしたいと活動してきた。
そういう流れの中で、北海道が体験し希求して、突き詰めてきた
「高断熱高気密住宅」技術伝承のコアを探究したいとも考えます。
たまたまブログを書き続けているので、その1シリーズとして
「北海道住宅始原への旅」を探究してきています。
大学は文系でメディアとかコミュニケーションの世界で生きてきた。
住宅建築は、雑誌を作ってくる中で意図的に出会った領域。
そういうことなので学究のみなさんとは知り合いではあるけれど
自分自身には建築を学んだ蓄積はない。
あくまでも人間・暮らしの目線で住宅を見てきています。
そんな無謀な試みを続けていると助力を申し出てくれる方もいる。
で、教えていただきめぐり会ったのが遠藤明久先生の著作群。
とくに「開拓使営繕事業の研究」という労作は探し求めても入手不可能と
思っていました。古書店を巡り歩く時間的ゆとりはないし
Amazonなどで検索してもヒットすることはない。
かろうじて大学4校図書館と札幌中央図書館には1冊だけある。
ということで、きのうようやくこの本とめぐり会うことが出来た。
しかも、コピーもすることが可能ということで、
先生の労作本文内容を入手することが出来た次第です。
これで明治初年からの北海道の住宅建築探究の基礎資料ができた。

と喜んでいたら、今度は北総研の高倉さんからメールで
くだんの遠藤先生の「肉筆」の論文PDFが送られてきたのです。
メールの本文には「三木さんの問に対して天国の遠藤先生からのお手紙」
というように書かれていて、まことに感無量。
遠藤明久先生の主な経歴は以下。
1915年 北海道小樽市生まれ
1934年 札幌工業高校建築科卒。函館市復興局入庁。
1945年 北海道庁勤務
1968年 札幌五輪冬季大会組織委員会施設部計画課長
1972年 「開拓使物産売捌所の研究」で東大から工学博士
1972年 北海道工業大学教授。
〜北海道文化賞、小樽市歴史的建造物保全に関わる。ほか受賞多数。〜
1995年 逝去
わたしはまったく知遇を得ておりませんが、
はるかに学ばせていただき、探究を続けたいと思います。感謝。
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【明治6年・開拓使「勅奏邸」でガラス窓】

2019年11月21日 06時55分39秒 | Weblog

北海道住宅の最初期、というか明治政府による「開拓使」設置からの
北海道開拓殖民において決定的な要素領域であった、
「住環境」についての始原を探ってみようという企画を進めています。
もちろん、前史はかなり遡れるのですが、
今日のライフスタイルに直接つながる「住文化」を
遺されている多くの資料を目的的に活用して、活写しておきたい。
とくに高断熱高気密という日本の住宅を革命しつつあることがらが
どのようにスタートしてきたのか、明治初年から
整理整頓してみようと考えている次第です。
開拓使は北海道開拓の本府として札幌を選択して、
そこに日本民族による寒冷気候を克服した「五州第一の」都を
造営しようと企てた。(判官・島義勇)
一部のアイヌのコタンを除けば人跡がほとんど見られなかった
札幌に旺盛に都市を建設し、住居を建て続けてきた。
明治初年であり、脱亜入欧の気風が強く洋式をもって範とする考えが貫かれた。
この写真の「勅奏邸」は開拓使の現地トップがその建築でも範を垂れる
そういう意味を持たせて建設されたに相違ない建築。
この当時「ガラス邸」と通称されていた建物にいちばんふさわしい。
その鮮明な写真が、北大のデータベースに保存されていた。
上の写真は、それの前面の縁・デッキテラスに面した正面側の「窓」を
クローズアップさせたものです。
右手には「雨戸」などを収蔵する「戸袋」もありますが、
窓自体を見ると、四角く桟で区切られた様子が確認できる。
ここに「ガラス」が嵌められていたことは想像に難くない。



通称ガラス邸という記載は明治5年の「御用火事」を伝える
資料などで「ガラス邸前から」という記述が見られているので、
それ以前に建築されていることがあきらか。
天皇の機関である「開拓使」の現地駐在官トップの邸宅なので
建築の動機に於いては最初期建築として建てられた可能性が高い。
その建築においてその後の札幌都市で一貫して追及された
「洋風建築デザイン」の嚆矢として取り組まれたと思われます。
そういう意味で「北海道住宅始原の家」と称して格式的にもふさわしい。



こちらの写真は右手側壁面の様子。
戸袋や外開きの木の被覆扉もみられる。
外壁は下見板張りが採用され、その後の北海道の屯田兵屋などの
デザインがここですでに基本的に採用されている。
ただし、明治初年段階では建材としてのガラスは輸入であるのか
国産化されていたのか不明。
いずれにせよ、高価であったことは想像に難くなく、
そういう建材が周囲を睥睨するように使われ「範とすべし」と
これみよがしに建てられていたことが容易に想像される。
そういう展示効果も狙っていただろうけれど
「ガラス邸」という通称名から、透明な窓というものへのオドロキが
意図されていたのだろうと考えられる。
どうもわたしのこの「始原期の探究」からガラス窓というものの
果たした役割がクローズアップされてきます。
洋風住宅の導入ということが日本の住宅の革新であり、
住宅性能の追求が、開拓使の住宅政策の基本に存在していたと思えるのです。
今日で言えば1枚ガラスの熱的に貧相なガラス窓ですが、
それまでの障子と雨戸という「開口部」の常識からすれば、
気密、ということを日本人に意識させる効果をガラス窓は果たしていた。
このことが大きなテーマとして浮かんできたのであります。

追伸:ガラス邸の建築が判明しました。
建築史の碩学・遠藤明久先生の文献にこの建物に触れたくだりを発見。
建物としては「夕張通第壱号邸」という「和風建築」で明治5年4月に
札幌市北4条西1丁目に建てられた「官舎」。
で、当時はきわめて珍しい「ガラス嵌め込み」建具が縁側に
組み込まれていたとされる。それを展示公開していたとのことで、
多くの札幌在住者に「ガラス邸」という通称名で知られていたとのこと。
ついに疑問のひとつが解決いたしました。
本ブログで紹介の「勅奏邸」はやや完成年度が下がり
明治6年10月という記録もありました。訂正致します。


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【開拓使・勅奏邸が「ガラス邸」か?迷宮入りか】

2019年11月20日 08時13分58秒 | Weblog


本日はしばらく書けなかった「北海道住宅始原の旅」シリーズです。
書けなかったのにはいろいろ忙しかったということもあるのですが、
特徴的な「住宅」ということで屯田兵屋とかを書き続けてきて
開拓使の長官邸、名前だけは記録に残っている「ガラス邸」について
さまざまに調査活動をしているのですが、なかなか進まないのであります。
岩村通俊や、その後の長官・黒田清隆などが札幌にいるときは
この建物を使ったに違いなく、また例の「御用火事」についての記録文でも
「ガラス邸前あたりから・・・」という一般固有名詞として
いわば「みんなが知っているあの建物」みたいに書かれている。
ところが、この建物がどういう建物だったか、記録が見えない。
北海道住宅始原の旅プロジェクトとしては、まことに画竜点睛を欠く。
「我流がいいところで、そんな画竜なんて」とヤジが飛んできそうですが(笑)
どうもココが気に掛かって仕方がないのです。

そういうわたしの悩みの理解者、建築研究者の高倉さんからヘルプで、
北海道の建築界の錚々たるみなさんが共同執筆されている
学術論文がありがたくも送られてきました。
「明治前期洋風住宅の平面計画の基本形に関する研究」というもので、
主査が駒木定正先生で、小林孝二・山之内裕一・中渡憲彦各氏が「委員」の論文。
そのなかに「勅奏邸」という、どうも胸騒ぎを憶える名の建物の情報。
勅奏というのは「① 天皇が仰せになることと、天皇に申し上げること。
② 〔「勅奏官」の略〕 天皇の文書を取り扱う役人。」ですから、
「開拓使」の長官なり代表者なりが利用する建物と比定させることにムリはない。
長官職は中央政権の閣僚なので北海道現地には常住せず、
基本は代行者が現地駐在なので、長官邸とせず勅奏邸とするのは理解出来る。

その論文に掲載された写真と図面を示してみたのですが、恐縮ですが
なにせPDFで圧縮された画像データの「復元」なので鮮明ではありません。
論文でのこの建物についての記述は要旨以下の通り。
「勅奏邸の建物の構成は主屋と背面の付属家からなり、主屋は切妻平入りで、
ファサードを左右対称として中央に玄関を据え、その両側を吹き放ちの縁とする。
縁に裳階状の庇と両端部に戸袋を設けているのは和風住宅の引用と推察される。」
(引用以上)・・・ということで、戸袋があるなら雨戸が仕込まれていた。
それは和風住宅仕様で、洋風建築のキー建材「ガラス」がイメージしにくい。
しかし、主題としての「洋風住宅」認識は下地にはある。
縁の中側に主屋居室があったワケで、その居室が半外である縁との仕切りに
ガラスの「窓建具」で区切られていたのでは、という想像は湧いてくるけれど、
そういった記録がまだ発見確認できない。
写真を見ると、縁越しに縦長の「窓」が見えている。
ここにガラスが嵌め込まれていたのではないか。
初期のガラス窓は障子建具代用の考えから「戸袋」も併設された?
新時代を感じさせる住宅建築としてのランドマークにガラスを利用。
だから「ガラス邸」という通称名が流布されたと睨んでいるのですが・・・。
どうもこれっぽくね、という私設「鑑定団」見解なんですが、
イマイチ、まだ決定打には至っていないかなぁというところ。ううむ。
どなたか「ガラス邸」について情報をお持ちの方、教えてください!
コメント
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