三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【Replan北海道122号 平屋の間取り特集発売】

2018年09月30日 17時15分47秒 | Weblog
さて表題のように週末、全道の大部分と首都圏の一部書店で
Replan北海道最新号が発売されています。
今回から「雑誌+WEB」という表現に本格挑戦しています。
この春3−4月から本格稼働させたReplanWEBマガジンと、
定期発売雑誌媒体との「コラボレーション」企画が
各クライアント企業との間で本格的にスタートしてきた次第。
その様子をWEBやSNSを利用して拡散しています。
わたしのFacebookページでも掲載された住宅のWEBページも本日紹介中。
住宅雑誌のメディアとしての優れた特性である写真撮影の表現力と
テキスト表現力、さらにフォーカスの定まった技術性能的マニュアル表現など、
ながく磨いてきた「表現力」は、WEB時代に各社様のホームページ制作で
大いにご活用いただいてきている部分。
なんといっても、ホームページは「メディア」なので、当然ユーザー側としては
その「表現レベル」がやがて大きな「選別眼」に繋がっていく。
その意味で自社でオールインワンとして住宅の表現に取り組んできた
わたしどものような企業は、WEB制作と親和しやすいといえるのです。
で、さらに今回ReplanWEBマガジンとして訴求力を高めてきています。
トータルリーチでは顕著な伸びを示してきています。
で、このように「雑誌+WEB」というそれぞれの特徴をフルに活かして
どのように「注文住宅」の世界を表現するか、ということに
全社的にスタッフの総力を挙げて取り組んできているのです。
そうです、わたしたちの中心的マーケット領域は「戸建て注文住宅」の表現。
まずは、このような表現に足る住宅であるかどうかのメディアとしての「選別眼」。
そしてそのレベルをクリアした上で、
高品質のそうした住宅をどう表現するか、ということが大きなテーマになる。
発出するメディアの特性も合わせて十分に検討して
その最適な表現スタイルを「吟味」していくことになります。
本日2件の住宅事例をFacebookで紹介させていただきましたが、
読者のみなさんからの「感想」も聞いてみたいと思っています。

さて、今回の表紙に対しては結構インパクトがあるという反応。
まぁ、屋根が板金ではなく、シート防水という
最近北海道で広がってきている工法住宅であり、
それをしかも「平屋の間取り」ということで上空目線から押さえてみた。
間取り図もそこに入れることで、ユーザーのみなさんに
まったく見たこともない住宅ビジュアルの世界を感受していただきたい。
「雑誌+WEB」表現としては、仮想現実的にその家を訪問しているように
感じていただき、同時にその平面体験以上の世界も見せたい、
というような欲張りで挑戦的な表現手法の探究であります。
Replanはつねに革新的な表現媒体でありたいと思っています。
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【にぎり寿司は美・触・食の感覚世界】

2018年09月29日 07時10分27秒 | Weblog


今週も寿司ランチを主催しまして、ごらんのような握りを作りました。
3回目となるとかなり慣れてきまして、ネタの仕入にも余裕が出てくる。
最初の回はネタは魚屋さんでお願いしたのですが、
2回目3回目と、自分で仕入れてさばくようにしてきています。
中トロ、イカ、サバ、ハマチ、ツブ貝、ホッキ、ホタテ
っていうのが、今回のネタ群であります。
今回はサバは、カブ漬け風味のヤツにしまして、
ちょっと関西風「押し寿司」感覚の味わいを試してみました。
わたしは北陸とか関西でよく押し寿司を食べるのですが、
あの風合いはにぎり寿司とはまた違った奥行きの世界だと思っています。

それと、今回の初挑戦は「ツブ」であります。
札幌の西の積丹半島の古平にある「東しゃこたん漁協」即売所まで
カミさんとよく出掛けるのですが、こちらで仕入れてきた。
もちろん貝殻からはさばいていて、それを冷凍させたもの500gパック。
それを自然解凍させて、包丁を入れるのであります。
なんですが、ツブは独特の食感があり、
ややゴツゴツとした感じなので、浅く切り身を入れて食べやすくさせた。
ひとくちで食べるにはやや大きめにして豪快感を狙う。
醍醐味のある舌ざわりと驚くほど繊細な味わいが口の中で躍動する。
北海道民には馴染みの深い貝類ですが、
北海道・東北北部が主要な産地のようですね。
おかげさまで今回の主役を張ってくれたようで、大好評をいただきました。
イカは今回15-6カン分を2ハイのイカを捌いて作った。
で、残ったヤツ、ゲソ・足などもいっしょに「塩から」も手作りしました。
イカの旨みを引き出すには、さばいてから半日くらい冷蔵庫で寝かせたほうがいい、
ということで前日のうちにさばいておいた。
ワタはその段階で取りだしてこちらには塩をたっぷり振りかけて同様に寝かせる。
で、寿司に取りかかる前に塩からは作って見ました。



わたしは自作塩からはこれが2回目の挑戦。
カミさんからの意見で「塩麹」を調味料として使ってみました。
彼女もいっしょに工夫に参加してくれるので楽しさは2人分になります(笑)。
いろいろな調理の仕方、さばく、切る、混ぜる、握る、そろえるなど、
まことにたくさんのプロセスを一気に楽しめる料理。
すっかりハマっていますが、いろいろふるまう工夫は尽きませんね。
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【地震被害はご先祖さまにも。霊園墓地の状況】

2018年09月27日 05時55分22秒 | Weblog


一昨日、恒例のランチミーティング終了後、長兄から電話。
「彼岸で墓参してきたら、墓石がけっこう被災していた。」という情報。
忙しさにかまけていて、お墓の方まで意識が行っていませんでした。
わたしの実家とカミさんの実家(父方と母方2基)合計3箇所に墓参するのですが、
それらは、札幌里塚霊園という墓地に集中しています。
「ウチのは灯籠だけ被害だけれど、そっちのかみさん実家のヤツはズレている」
という知らせをもらいました。ご先祖さまに申し訳がないので急ぎ確認に。
写真はカミさん実家の周囲のお墓の被災状況であります。
ところどころ集中的に被害がみられます。
上の写真例では墓石自体が落下してしまっている。
下の写真では端っこの墓なので、側面の土留めのような石が散乱している。
カミさんの実家の方は、本来の位置から5度くらい墓石の方向がズレていた。
手で動かそうと試みましたが、まるでビクともしない。たぶん数百キロ重量。
修復させるには重機が必要かも知れないと判断できました。
灯籠も一部が欠損し、部品を重ねて乗せているだけ構造で散乱していた。
まぁ一部が欠けていると言ってもそもそもが砂岩のような石なので
若干の欠き込みが出来た程度と考えれば問題とは言えない。
こっちの方は手で持てる重さなので、再度重ねて積み上げてDIY再構築。
墓石というのは基本的に重たい石を重ねているだけの「構造」なのですね。
そのような「構造」なら、対応はその程度でいいと考えました。
一部ではモルタルなどで接着を試みている例もありましたが、
その程度ではムダな抵抗でカンタンに落下するものもあるようです。
で、長兄からの報告では灯籠の再積み上げ修復にも若干の費用が掛かり、
その上、年内工事は集中でとてもムリで、来春以降と言われている。
しかし重さだけで持たせている構造では、イタチごっこのような気もする。
「その場しのぎ」的なことに費用は掛かってしまうのだと。
住宅建築の世界にいると、構造安定維持が大前提でそのコストを負担するという
常識が基本なので、どうもなんともなぁという感は否めない。
まぁしかし信心に関わることなので応分負担で修理ということにしました。
地震の影響って、こういう普段は気付かないようなことも含めて
まだまだあり得るのでしょうね。地震大国ニッポンを再認識。



きのうお伝えした「アゴラ」での拙ブログ記事掲載、
けさ確認したら、記事アクセスでトップになっておりました。
このサイトは月間ページビューが1,000万を超えるということですので、
単純に言えば、1日30万くらいはあるということで、情報拡散されているようです。
多くの人にPV1kw北海道全戸配布という意見を聞いていただければうれしいです。
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【反原発でも同意可能。北海道で太陽光発電セット全戸配布を】

2018年09月26日 07時16分41秒 | Weblog
本日9月26日、以下のブログが、「言論プラットホーム・アゴラ」さんに
掲載されました。お知らせするとともにわたしのブログでも掲載します。
ブログ読者はお気付きでしょうが、ここ数日のわたしのブログでの文章と
重なっている部分があります。まとめたものとご了承ください。

今回の地震とそれに引き続いた「ブラックアウト」はそこに暮らす
わたしたち北海道人の生存条件を大きく揺るがしています。
わたしどもは地域住宅雑誌として「性能とデザイン」を追究する姿勢で
雑誌を発行してきましたが、住宅はなによりも
生きる安全保障のベースであると思います。そのため、寒冷地・北海道では
住宅性能要件がきわめて重大という認識で多少とも啓蒙に役立つようにと
考えながら、出版とWEB事業に取り組んできています。
今回の事態は、地震被害もさることながらより根源的には
電気エネルギーが途絶えてしまえば、経済もなにも動かないし、
生存条件もきわめて危ういということを完膚なきまでに北海道民に
知らせたと思います。わが家の場合40数時間で停電が解消されたのですが、
地震の被害はほとんど無いのにもかかわらず、電気がないので
まったく仕事が出来なくなってしまった。停電はこの程度で済んだのですが、
結果として北海道の経済活動は大きく毀損したことは申すまでもありません。
被害は多方面に及ぶことが不安視されます。

そういうなかで毎日新聞の記者による「記者の目北海道大停電 
原発依存が招いた“人災”=筑井直樹(夕刊編集部)」という記事が目に付いた。
記者さんは札幌に家族を残して東京に単身赴任しているようでした。
で、論旨としてはひたすら北海道電力の経営責任を論難追究するもので、
「だからといって泊原発の例外的な再稼働はあってはならない。」と
論拠を示さずに断定している。それでは寒冷時期にブラックアウトが
再来したらどうするかについては、
「このまま冬を乗り越えるのはかなり厳しいだろう。」と書きながら
「わたしたちも電気の大量消費を前提とした生活を見直す必要があるが、
北電は電源の多様化や発電所立地の分散化に限りある経営資源を投じるべきだ」と
上から目線で高説を垂れている。
 節電に耐えるのはいいけれど、北電の新たな経営改革でこの冬、
直近の北海道の暖房危機は乗り越えられるわけもない。
こういう記事が原発反対の人たちの多数意見であるならば、
もう絶望しかないと言わざるを得ない。ぜひ北海道に戻って来てもらって、
いっしょにブラックアウトで無暖房の極寒期数日間を過ごしたいと思う。
死人が出るまで、いや多少の死者くらいでは反原発原理主義者には
聞く耳はないのだろうと深く絶望させられた。しかし、こういう原理主義者たちは
事実上いまの日本のエネルギー政策を「決定」している。
少しでも原発利用論を言えば、ファシストのように攻撃を仕掛けてくる。
だから誰もそのリスクを危惧して声を挙げなくなっている。

そういうことならば別の手段をと建築関係者と論議した結果、
北海道全戸約295万戸に太陽光発電1kw相当と蓄電装置をセットにして、
公共事業として設置配布を推進してもらえないかと思い至った。
1kwでは不足ともいえるけれど、それで暖房器の起動電力がまかなえるので、
最低限の「生存保障」が可能になると思われるのです。
 太陽光発電装置を導入した住宅のコストはFITで事実上、
すべての電気ユーザーが等しく負担してきているけれど、
その累計額でも結構な数字になる。それはそれでいいけれど、
冬場の生存条件を同じ国民として等しく担保する意味で寒冷地、
とくに電源構成にいま原発がない北海道では、こういう安全保障策が
あってもいいのではないか。こちらの方がより民主的な利用使途ではないだろうか。
これならば、反原発に考えが凝り固まった人たちも同意可能なのではないか
と思う次第です。コスト的な問題は大いに国会議員さんたちに頭を絞ってもらいたい。
これは現実に電気を発電するので、長期に「売電」していけば計算は可能だろう。
また、大量発注メリットでコストダウンも見通せる。
たぶん、こういった国民的合意可能な施策が、自然エネルギーへの転換の
大きなきっかけを作るように思う。
この施策には当然相当年数が掛かることが想定されるけれど、
その間についてはやはり現実的に泊原発を稼働させるべきでしょう。
原発を放棄すると宣言したドイツでも、それまでの間は利用するという
現実主義を取ってきている。原理主義からはなにも生まれない。
賢く現実をみつめ、この暖房危機を突破させたいと切に願っています。
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【低成長時代の会社選びと年代意識差】

2018年09月25日 06時10分06秒 | Weblog
夏休みのお盆の頃に、就活から解放された息子の友人たちが
わが家に来てくれていた。
食事などの機会に、現代の「会社選び」「人生選択」について聞く機会があった。
それと一昨日、はるか40年以上前に会社選びをした高校同期の同窓会があった。
その両年代での意識差について感じることがあった。

一部上場企業ばかり9社から「内定」をもらったという息子の同級生。
話を聞いていても、わたしも「こういう学生ならウチの会社に来てもらいたい」と
率直にそう思えるタイプだった。
わたしのように一流企業就職にはまったく縁のなかった人間には
はじめてこういった人材から話を聞く機会を得たようなものでした。
一流企業というのはこういった人材が入社していくのか、とも新発見した。
で、結局どういう会社に入社するの?と聞いたら、
その会社の将来性を最優先に考えて、入社先を決定したという。
いまの世界の動き、技術革新の進展、経済動向など分析は
きわめて現実的で鋭利なものがあり、わたしも納得もできた。
かれなりに、長期的経済動向を見据えてある業種のトップ企業に決めたという。
「これからは、この業種が先端的になっていく」という選択眼。
人生選択の最初の段階で、長期的な視点と人生プランを立てている。
かれはアルバイト先の選択でも東京都心のレストランを選択していて
そこにはたとえば黒田日銀総裁のような方たちなども出入りすることがあり、
あるときには会話を交わしたこともあったと言うことだった。
まことに人生に対して「戦略的」な考えを持った青年だと感心させられる。
聞いたら、大学1年生の時からそういった考えで行動してきたという。
と思えば、バックパッカーでいろいろな国も見てきているという。
そういった青年なので、会社選びにもまことに戦略的な選択をするのだろう。
日本経済は低成長の時代が長く、また業種によって衰退化傾向も現れている。
わたしが選択したメディア関係、広告関係という業種。
たとえば雑誌出版事業などは、1995年をピークに
いまは、業種全体で総売上規模がほぼ半減している。
業種に対する選択眼で就活生から、厳しくふるいに掛けられるのですね。
そういえば、朝日新聞に東大からの応募者がゼロになったと話題にもなった。
たしかに情報の世界はインターネットという巨大発明によって、
もっとも大きく揺さぶられているとはいえるけれど、そもそも
わたしたちの就職時期には、こんな技術は影も形もなかったのだ。

そんな話題を同窓会で振ったら、わたしたち現在66-7才の年代は、
「どんな業種も拡大していく意識しかなかった」というのが多くの声。
そうなのだ、高度成長の余韻の中で人生をスタートした年代には
日本経済や資本主義が無限に拡大するイメージの方が一般的だった。
どんな業種が伸びるかというよりも、それぞれに伸びると考えていた。
少なくとも、どの業種が衰退しどの業種が伸びるかというように
シビアに選択するより、その位置でベストを尽くすことを優先と考えていた。
逆にいまの若い人たちは、資本主義の大きな変化を肌で見て知って、
その変化の中での「安定」をこそ志向しているのだと思える。
政治意識も含めて、こうした世代の相違はきわめて大きい。
ひとの意識に於いて、時代は移っていくことを実感させられた次第。

<写真はひな鳥の寓意ですが・・・無関係>
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【炎の癒やし力】

2018年09月24日 07時54分57秒 | Weblog
一昨日の新そばの会では、おおむね食事が終了後、
炎を囲んでの一時を過ごしておりました。

最近は農家の「野焼き」に対してすら、煙が臭いとかいう
そういった苦情が寄せられるのだという。
野焼きを忌避する発想って、いったいなんだろうと疑問です。
どうもそういう意見には賛同しがたい。
人間の都市的な居住域が周辺地域に向かって拡散して
都市居住での環境の方が優先性を持っていると錯視して
そのような主張を持たれるのかなと思うのですが、納得しがたい。
人間の感受性の中でも大きな領域を占めている臭覚にとって、
炎が発する大きな要素としての匂い、そういうバイタルな感覚を
こういった忌避傾向は、遮断させると思う。
炎は初源的な人類体験。それと接する機会を大切にして体感しないと
人間的なバランス感覚を失することになるのではないか。
「通報」があれば、いまは公権力が
こういう野焼きなどにも介入せざるを得ないのだという。
そういった他責的「個人主義」には、大きな疑問があります。

人類が進化してきた過程で、炎との共生はもっとも重要な部分。
ものを焼いて食するというのは、衛生という意味でもっとも根源的体験。
そして調理という基本的営為を人間は獲得した。
さらに炎を囲むと、そこに沈黙の時間が訪れると思う。
たぶん一箇一箇の人格が、炎と向き合う瞬間があって、
それが寡黙にさせるのだと思っています。
動物として火を扱うことを憶えたのは人間だけだったはるかな記憶が、
蘇ってくるのではないかと思っています。
また宗教とか社会の成立にも、たぶん炎は相当に関与していたように思う。
人間集団のバイタルな結束感を炎はいや増す効果を持っている。
野焼きの煙は、わたし自身の幼年期の記憶の中にも強く残っている。
まだ2才くらいのときに、岩見沢市郊外の農村から、一家は札幌に移住した。
そのときに、移転にそなえて不用な品々を野焼きしたのではないかと
そしてその様子を、こども心に強く焼き付けていたのではと、
そんなふうに思っています。
いまでも、農村風景のなかで野焼きの匂いがしてくると
無性になつかしくて、クルマをつい停車させてたたずんでいたりする。
ノイジーマイノリティが生み出す無味無臭な世界とは対極の
多様性に満ちた感覚の世界を失わせてはならないのではないか。
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【自然エネ循環体感 in日日庵・秋の新そば祭】

2018年09月23日 05時46分03秒 | Weblog



天気予報では終日雨予報でやや危ぶまれたのですが、
北海道の住宅関連事業者有志による「新そば」堪能の会。
こりにこったおじさんたちの自慢料理大会が昨日、開催されました(笑)。
会場は、武部建設・武部英治専務の岩見沢市内の隠れ家、日日庵。
好きが高じてのそば畑、本人曰く「縄文そば」というヤツですが、
毎年、その収穫を祝って同行の士が集うという次第です。
わたしももう7−8年前に一度参加したけれど、
その後しばらくご無沙汰で、きのうは久しぶりの参加であります。
参加者は、旭川、帯広と幅広く全道から集結、総勢15-6人。
こういう会なのでお酒や食べ物は各自好き勝手に持ち寄り。
わたしは最近の社長食堂メニューから、イカ刺身を手作り持参。
まぁしかし、そこに生えているそばの畑での自作蕎麦食は醍醐味がたっぷり。
お昼から夕方6時過ぎまで、停電騒ぎのなか、北海道的野趣の盛り上がり。

先日もキャンプ的な北海道スタイルの暮らしようが
電気遮断のくらしのなかでも、元気よくしたたかに危機をいなそうとしていると
書きましたが、まさにそういうライフスタイルの探究であります。
この武部さん所有の日日庵地所も、札幌から電車でも1時間圏内ですが、
北海道内にはこういうちょっとした場所でも
サバイバル的な生きる環境条件が整っている。
電気が高度に暮らしを支えてくれているのはありがたいけれど、
それとはまた別に、自立的なライフスタイル環境を構築するのは、
共感をもてるところではないでしょうか。
この日日庵は、中心施設の小屋があって、その周囲にキッチン装置〜
プロパンガスによる調理火力や、水道設備、食堂機能を持った
食遊空間などが、屋根だけが架けられたカタチで成立している。
小屋には床暖房も敷設されているので、寝泊まりも可能になっている。
まぁしかし、ひとりが限度。
きのうは、遠隔地から来たひとたちはキャンピングカー「持参」での参加。
最近女性の参加も増えたので、女子トイレだけはしっかり建築的な
現代的快適性・ウォシュレット完備で小屋がけされたものが作られている。
一方で、男性の方は自然回帰型の天地循環方式で、目印としての
石が数個置かれている場所のみ(笑)。
そして枝豆などは食べる先から、それを自然循環よろしく、
畑の堆肥代わりにあちこちに投げ捨てる(笑)。
周囲には葦などが威勢良く繁茂しているけれど、
地面を見るとこのように施肥した地力が旺盛に感じられます。

こういう環境の中でのオヤジたちトークですが、
さすがに建築とエネルギー論議が口角泡を飛ばして炸裂していました(笑)。
まぁこれだけ元気なら、北海道の危機もなんとかなるかもと錯覚していました。
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【冬場電力危機に応急暖房ボイラー運転確認】

2018年09月22日 07時39分42秒 | Weblog
さて北海道電力のでんき予報をよく見るようになった北海道民です。
北海道電力としては巨大投資した泊原発なしでの対応を迫られている。
インターネット上ではいろいろな泊原発への意見があるようです。
どうも見る限り、多数派は命に係わる問題なので、
いま利用できる電源として、安全に配慮して稼働せよという意見のようですが、
しかし反対派は、まさに原理主義的に反発している。
ではどう命の危機から逃れられるかは、残念ながらそういう意見からは聞けない。
この問題は北海道民の冬場の生活の安心。安全に直接関わるので、
推移を注視したいのですが、この日本社会の状況では稼働は「ない」という前提で
冬場の北海道で万が一の全道ブラックアウトが再度あり得るということで、
各暖房システムごとに、各自が自己防衛を考えていかなければならない。
もうちょっとこのテーマ、日本社会はきちんと向き合って欲しいと思います。

ということで、わが家の非常時対策として、
灯油熱源のボイラーのチェックを致しました。
当然ですが、熱源は灯油であっても、起動とコントロールには電気が必要。
9月6日のブラックアウトでは丸2日間の時間が復旧にかかった。
しかし、冬場はこの9月時期よりも暖房需要のプラスがあって
390万kwに対して550万kw超の電力需要があるとされる。
苫東厚真の再稼働がまったく不可欠なわけですが、
なんとか頑張っていただくしかない。
で、わが家の暖房ボイラーの消費電力を確認したわけです。
写真がその確認画面です。
わたしのサバイバル作戦としては、以下の通り。
1 クルマにはこまめにガソリンを補給しておいて
満タン状態を維持するようにしておくこと。
2 停電が勃発すれば、クルマをエンジン起動させてロックをかけたまま
シガレット電源から延長コードでボイラーを電源接続させる。
3 シガレット電源からのアンペア数は10Aなので、ボイラーの消費電力を確認する。
4 写真のように250Wとなっている。換算計算をいろいろやってみています。
現状で可能な追加的な方法でチャレンジしてみたい。
・・・というような作戦を考えています。
9月6日には、停電時間中でパソコンなどにこのシステムで電源供給したのですが、
そのときはクルマのガソリンは3/4くらいの残量だったモノが、
7日の停電終了時には、約1/2くらいの残量になっていた。まぁOK。
シガレット電源からの延長コードはどうしても一部「窓を開ける」ことになるけれど、
冬場のことを考えると同時に「換気装置」も停止するので、
そういう意味では最小限、窓を開けるというのはやむを得ないし、
換気にとってプラスになるとも言えるでしょうね。

まぁこういった事態にならないように祈るしかないのが北海道民の現実です。
停電に伴う室温の低下については、それぞれの住宅・建物の
性能によって違いが出るし、蓄熱要素もそこに加わってくる。
外気温が最低でマイナス30°にもなる時期で、どれくらい無暖房で
室温を維持できるかは、ある程度の目安は持っていたいと思います。
10年前くらいに、年末年始の休暇で家を1週間程度空けたときに、
行く前の室温が20°程度が、帰ってきてたしか15°程度だった記憶がある。
15°というのはかなり体感的には寒く感じられ、
冬場の室内気温としてはやはり厳しい。しかし、非常時と考えると
ダウンジャケットなどを室内で着込めば、数日程度は生存環境としては問題ない。
・・・こういうシミュレーション想定を、この冬を前に
北海道民は各自がしっかり把握する必要があると思います。
残念ながら、いまはそういう自己防衛しか対策はないと覚悟しなければ。
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【美を編集する。「見る」を再発見する】

2018年09月21日 06時34分53秒 | Weblog


先日このブログでも写真家の講演のことを書きましたが、
家をどう表現するか、というわたしのメインテーマに非常に近しい領域なので、
実はわたし的には生々しすぎる時間でした。

住宅の写真撮影に数知れないほど立ち会い続け、
住み手や作り手と対話することで、人間のすまいというものの把握、
その感受性部分での「伝え方」を意識下でずっと考え続けることになった。
いつしか個人的興味分野として、そういう「取材対象者」が過去にしか
存在しない古民家を見続け、瞬間的にはくらしの実質を感じられることがある。
さまざまな人間がそこで生きて死んでいった空間から
その断片を切り取ることで、人間感受性の断面を見られると感じています。
ビジュアル体験が過去の人類と比較して圧倒的に「進化」したに違いない
20世紀以降の人間たちは人間が感じた事、この「見える」世界を
どのように表現するようになるか、
そのようにテーマが沈殿し続けているのです。
ようするに「アングルはどう決定し、なにを表現するべきか」なのです。

たとえば上下2枚の写真ですが、
下の写真のような風景の場所に来たときに、わたしはなんとなく
上の写真のようにアングルを切り取りたくなった。
まだ、このように切り取りたくなるということの理由、
その心理的必然性について自分自身ではまだ明瞭ではありません。
ただ、なぜかこのようなアングルに気分が向かったということ。
わたしは20世紀中庸まんなかくらいに生を受けた人間です。
幼児期にはメディアとはほぼ接触が無かったので、それまでの人間と同じような
「見える世界」体験がベースにはあるのだろうと思います。
しかし小学生になるころには、わが家にテレビがやってきていた。
紙に表現されたビジュアルよりも、先験的に大量の動画ビジュアル体験をした。
「見る」という営為はひたすら受動的に見えて
実はそうではなく、見ることでその表現のされ方、ものの見方、
というような部分について圧倒的に大量の情報が瞬時に入ってきて
それらを瞬間的に解析し、その背景意図と対話もしてきたのだと思うのです。
たぶん過去の時代のビジュアルの専門家を幾何級数的に上回る
「ビジュアル体験」を現代の普通の人間がもつ時代を生きてきた。
現代ではさらにスマホという感受性ツールがほぼ普遍化した。
「見る」とか「切り取る」という営為が専門者の手から普通人に一般化した。
たぶんその先にあるのは「気付く」ということではないかと
いま、直感的に感じています。
たぶんフロイト的精神解析のような領域で、「なにに気付くのか」
というようなことが、多くの人にとっても共通テーマになる可能性が高い。
なんともオモシロい時代をわたしたちは生きていると思う。
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【にぎり寿司作り、80カン超に挑戦】

2018年09月20日 07時01分35秒 | Weblog


調理場所も確保された事務所環境ということに変化したことに伴って始めた
「社長食堂」。先週は地震勃発で延期にしていましたが、
今週火曜日にふたたび再開いたしました(笑)。
で、大量のにぎり寿司を握ること、第2回目であります。
今回は寿司ネタのほうも自分であちこち探し回って、仕入れました。
まぁふだんの買い物のついでが主で、日曜日に積丹近辺で仕入れたモノが若干。

切る方もたいへんオモシロいですね。
「刺身包丁」というヤツはふだんの料理ではあんまり使いませんが、
カミさんが手入れもしてくれているので、切れ味もいい。
こんなに醍醐味のあるものだとは、と興味が深まった。
とくにホタテをタテ半分に切るときには、
「包丁の重みで下に落とす」感じが味わえまして、悦に入れた(笑)。
上の写真のように皿に盛りつけていくと、馬子にも衣装で
「こりゃぁ、刺身盛り合わせにしちゃおうか」とあやうく脱線し掛かった(笑)。
別に社長食堂企画はにぎり寿司だけをやるわけではないので、
そういう展開もありかもと思っています。
しかし、ネタを切る大きさではシロウトらしくバラバラ感は否めない。
ありゃ、というほどに大きかったり、逆に申し訳ないほどに小さかったり・・・。
シャリの用意の方ですが、味付けの方は2週間と間が空くと、トリ頭で忘れる。
研ぐ方と炊く方はほぼ毎日練習できているので、そこそこにはなってきているけれど、
この味加減はなかなり奥が深すぎるようです。
自分では味見すればするほど「薄味」志向になっていく傾向。
カミさんはどっちかというと濃い味派なので、中庸の着地点が計りがたい。
方法も含めて、また次回、どうするか、迷い続けることになりそう。
握りの方も、第1回の「やればできる」という猪突猛進でいけた段階を過ぎ
だんだんと奥行きの深さに気付かされるという胸突き八丁段階。
今回80カン以上握ったのですが、今回気付いたこと。
1 左手でシャリを包んで右手指で押さえるとき、2本指よりも1本指では?と思った。
2 寿司のシャリの大きさをもっと小さくして、カタチを揃えるにはどうすべきか?
3 前回よりも、握りの圧力をかなり高めてみた。
っていうようなことを考えながら握ってみた次第です。

それにしても80カンの握りにおおむね1時間半かかった。
まぁひたすら手先の労働なので筋肉的疲労感ではないのですが、
精神的な集中力疲労感がけっこうきますね。
段取りが8−9割の仕事でしょうが、
お寿司屋さんの職人さんたちは、これの何倍も何十倍も毎日握ると考えると
あだやおろそかには食べられませんね、頭が下がります。
自分でやってみる効用は、案外こういう他人の仕事へのリスペクトが
最大の気付きポイントなのかも知れませんね。
これからも遙かな道をたどって迷い続けたいと思います(笑)。
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