さて「北海道住宅始原期への旅」シリーズですが、
写真はなぜか神奈川県横浜市「鶴見」駅の明治はじめと最近の
駅写真であります。
北大の「北方資料データベース」にはなぜかこういう写真もある。
開拓使という歴史上10数年間だけ存在した「中央官庁」は
札幌に本庁を置きながら同時に中央省庁として東京にも本部機能があった。
企業で言えばダブル本社制みたいなものでしょう。
長官である黒田清隆は中央政府要人として東京に在住している必要があり
また開拓使の政治力の源泉はかれの存在であったのですから
いわば必然的なスタイルだったのだと思われます。
それで指揮命令系統に齟齬が生じることもあったワケですが、
そもそもがそういった組織形態であったことの表現だった。
たぶんこういった関係からこの写真は北大に格納されたのではないか。
駅の建築について、そのイメージを現物の駅舎で確認させるみたいな。
東海道線の「標準的」な駅舎としてたまたま当時の鶴見駅の規模が
ひとつの「尺度」として採用された可能性がある。
150年の時間の推移で鶴見の駅舎は大変貌を遂げているけれど
北海道の地方の駅舎ではまだ、この明治初年の鶴見駅舎と
そう変わらない景観のものも決して少なくはないだろう。
そもそも北海道の鉄道敷設は東海道、関西圏に続いて3番目。
いかに開拓が至上命題とされたとは言っても、
人口規模で考えれば地域に投資する順序はあきらかに経済効率計算ではなかった。
しかし早い段階での交通手段の導入は「観光」という事業領域を生んだかも。
最初の北海道の鉄道が明治天皇の「お召し列車」であった事実は
一種の地域としての「エキゾチズム」を生成させるきっかけにはなった。
このことは、北海道の地域としての性格付けにも影響した。
基本的な部分で深く東京との関係が強まったということ。
よく北海道の「となりの県」は青森ではなく東京だと言われる。
主に国家的公共事業による開発独裁的な発展の仕方をしたので
そのような地域色がついたのだといえる。
まぁそういう意味では「東京の植民地」と悪くとらえられもするけれど、
北海道としては前向きに、ニッポン人感性的な「資産」とも思われます。
さてわたしも東京関東との往復が人生長かったので
東京での出張時の滞在先も好みがずっと推移してきた。
はじめの頃は便利な繁華街中心だったけれど、徐々に気分が変化して
なぜかいまは「鶴見」がお気に入りになっている。
都心との距離感、適度なローカル性ということと、
總持寺があって、毎朝たのしい「朝勤」を参観できることが魅力(笑)。
宗派は違うのですが、その修行の様子がなんとも刺激されるのですね。
そんなところにこの写真と出会って、勝手に盛り上がっている次第。